13


 旅人の身であれば、見慣れない天井を眺めながらの目覚めは珍しくもない。
 まばたきを繰り返し、ひとつ大きなあくびをして、両腕を天へと伸ばす。そうやって寝起きの身体をほぐしているうちに、徐々に意識が鮮明になってきた。

 崩れ落ちた瓦礫の下から、鍾離に救い出された後のこと。
 感極まった相棒にしがみつかれながら、空は璃月港にある青年の邸宅へと一瞬にして運ばれた。彼が仙人の祖であることは知っていたが、実際に仙術を使う姿を目にするのは初めてで、少々驚いた。
 すぐにでも眠ってしまいたいところだったが、埃まみれの身体で借り物の寝台に転がり込むのはさすがに気が引けた。残る気力を振り絞って湯を借りた後、あてがわれた部屋へと踏み入って——記憶はそこで途切れている。

 あれから、どれくらい眠っていたのだろうか。
 東側にある窓から穏やかな光が射し込み、床へと落ちている。朝と言うには少々遅い頃合いか。空は上半身を起こし、部屋をぐるりと見渡した。
 さほど広くなく、調度品も最低限ながら、落ち着きのある小綺麗な空間。ここで目覚めるのは初めてではない。宿が取れなかった時、鍾離の計らいで何度か借りたことがあった。
 ほとんど使っていないという割に、手入れが行き届いているように見える室内。清潔な寝具からは、微かに持ち主と同じ香りがした。
 ——そう言えば、彼にはまともに礼も言えていない。
 まだ邸内にいるだろうか。家主を探しに行くため、空がベッドから下りようとした時。

 不意に、部屋の扉が軽く叩かれる。
 反射的に返事をすると、ややあって静かに扉が開き、探すつもりだった相手が現れた。

「起きていたか。気分はどうだ?」
 後ろ手に扉を閉め、寝台へと歩み寄ってきた鍾離は、片手に小さな木の盆を持っていた。その上に乗せられた陶製の器から、白い湯気が立ちのぼっている。
 盆を寝台脇の小卓に置くと、青年は長身を屈めた。突然近づいてきた美貌に、空は一瞬呼吸を忘れてしまう。
「ふむ。顔色は良いようだな」
「だ、大丈夫……」
 必死に平静を保ち、かろうじてそう答えた。不意に距離を詰められるのは心臓に悪い。自身が彼に抱く感情を自覚した今となっては、なおのことだ。
 そんな少年の内心など知る由もない青年は、うなずいて姿勢を戻すと、傍らの丸椅子に腰を下ろした。

「温かい茶を煎れてきた。飲めるか?」
 盆の上の湯呑を取ろうとする青年を制し、空は居住まいを正した。何よりもまず先に、言わなければならないことがある。
「助けてくれてありがとう、先生」
 その言葉を受けて、鍾離は赤銅の瞳を瞬くと、くすりと笑った。
「俺が好きでやったことだ。気にしなくていい」
 だが、と彼は微笑みながら続ける。
「受けた恩に礼を忘れない、お前のその義理堅さは、実に好ましいものだ」
 言葉とともに差し出された湯呑を、少年は無言で受け取った。香りだけで上質とわかる茶を一口含むと、さわやかな後味と温かさが喉を滑り落ちていく。
 頬が紅潮しているとしたら、それは身体が暖まったせいだ。そう相手に思わせたくて、薫り高い湯気に顔を寄せる。
 理由はどうあれ、彼が自分に好感を持ってくれているという事実が嬉しかった。

 温かい茶でひと心地ついたところで、ふといつもの騒々しさが無いなと気づく。
「そう言えば、パイモンは?」
「何か食べるものを買ってくる、と言って出て行った。お前が起きたら空腹だろうから、と」
 青年の返事に、地下から出た自分の腕にしがみついて離れなかった相棒の姿を思い出す。心配をかけてしまったな、と空は内心で苦笑した。

「先生は、どうして俺があそこに居るって解ったの?」
 熱い茶に息を吹きかけながら、空は助けられた時から疑問に思っていたことを訊ねる。
 問われた鍾離はしばし沈黙した後、懐に手を入れた。そして取り出したものを、おもむろに旅人へと示す。
 黒手袋をはめた手の上に乗っているのは、見覚えのある耳飾りだった。留め具の部分が無くなっていることに気づき、空は訝しげに青年を見る。
「これ……」
 物問いたげな視線を受けて、ああ、と鍾離が軽くうなずく。
「昨日の、昼過ぎだったか。着けていたこの耳飾りが、突然ちぎれて落ちた」
「それを見て、嫌な予感がしたんだ。お前の身に何かあったのではないか、と」
「……それだけで?」
 思わず口を突いて出た言葉に、青年は自嘲めいた苦笑いで応えた。
「そうだ。単なる俺の思い過ごしならば——お前に何事もなく、戯言と笑ってくれるなら、それで良かった」
 まあ結果的に、予感は当たっていたわけだが。そう続ける彼に、空は決まりの悪い面持ちで視線をそらした。

「虫の知らせ、というやつだったのかもしれないな」
 壊れた耳飾りを再び懐にしまって、鍾離が呟く。
「昨日は何となく、これを着けようという気になった。
 その感覚に従っていなかったら、ああも早くお前の状況を知ることはなかっただろう」
 静かに語る声を聞きながら、空は手元の湯呑に目線を落とした。半分ほど中身の残ったそれを、そっと盆へと戻す。
「普通に考えれば、耳飾りが壊れたのは単なる偶然に過ぎない。だが、あの時はそう思えなかった」
 少年の顔を正面から捉え、赤銅色の瞳がすいと細められる。
「昨日はずっと、お前のことを考えていたからな」
「え——」
 青年の一言に、空の心臓が跳ねた。
 硬直する少年を前に、鍾離はひとつ息を吐いて。

「すまなかった」
 不意に告げられた謝罪に、空は目を見開く。
「な、何で、先生が謝るの」
 彼に迷惑をかけて、申し訳ないのは自分の方なのに。
 動揺を抑えきれない旅人を真っ直ぐに見据えて、青年は形の良い唇を開く。
「頼ってきたお前に、俺は求められたものを返してやれなかった。失望するのも無理はない」
 だから、距離を取ったのだろう?
 そう告げる黄金の瞳に、心底から詫びる色を見て取って、空は慌ててかぶりを振った。
「違う……違うんだ、先生」
 彼から遠ざかることにばかり腐心していたが、確かに彼からすれば、そう捉えても当然の状況だっただろう。
 彼を傷つけたくなかったから離れたのに、その行動で逆に要らぬ懸念を抱かせてしまった——なんて皮肉な、と空は内心で自嘲する。

「俺が妹を探すのと同じように、先生にとっては契約を守ることが何より大事なんだって、わかってる」
 どう言えば自分の真意が伝わるか、ひとつひとつ選んだ言葉を声に乗せる。
「あの時、先生が出した答えを、俺は納得した上で受け入れた。だから、失望なんてしてないよ」
 俺は、先生を信じてるから。
 確固たる意志を込めて、告げる。それが真である保証はない。けれど少なくとも、この青年が自身の敵でないことだけは直感していた。

「——ふむ」
 返答を聞いた鍾離は、安堵と疑問の入り交じった表情で首を傾げた。
「では、俺を遠ざけていたわけではなかったのか」
「……それ、は」
 その点については否定できず、空は言葉に詰まってしまう。その様子を見て、鍾離の目がすうっと細まった。
「やはり、避けていたんだな」
 その瞳を直視できず、少年はただ口を噤むしかなかった。

 沈黙する旅人を見つめていた青年の、切れ長の目尻がわずかに下がる。
「俺は何か、お前の気に障ることをしてしまったのか」
「違う。先生は何も悪くない」
 全部、俺自身のせいだから、と。空は首を横に振り、彼の懸念を否定した。
「では、何故?」
「……」
 重ねて問われ、空は答えに窮する。

 ようやく彼への恋心を認めたとはいえ、それを本人に告げるかどうかは別問題だ。
 この感情を鍾離に知ってほしいという気持ちが、無いと言えば嘘になる。だが、もしも彼が受け入れてくれたとしても、その先は? いずれ訪れる離別によって、互いに消えない傷を負うだけではないのか。
 彼が好きだ。だからこそ、これ以上傷ついてほしくない。
 明かすべきか、秘めるべきか——空はまだ、最終的な答えを出せずにいた。

 二人の間に、再び重苦しい沈黙が横たわる。
 視線を落とす少年の横顔を、じっと無言で見つめていた鍾離は、やがてふっと息を吐いた。
「話したくないのなら、無理にとは言わない」
 だが、と。瞳に複雑な色を宿して、彼は静かに言葉を続ける。
「このまま理由もわからず、お前に避けられるのは、俺にとって寂しいことだ。
 出来るなら……お前の思いを聞かせてほしい」

 ——やっぱり、この人はずるい。

 真っ先に頭に浮かんだのは、極めて八つ当たりじみた感想だった。
 そんな顔で、そんな台詞を言われたら、黙り通すことなんて出来るわけがない。
 半ば白旗を挙げる気分で、空は大きく息を吐いた。
 彼への感情については置いておくとしても、何のために彼から離れようとしたのか、その理由は明かすべきだと思った。少なくとも、一方的に遠ざけられた彼には、それを知る権利があるはずだから。


「俺は——」
 意を決して、空は口を開く。覚悟を決めたものの、彼の顔を正面から見ることは出来ず、掛布を握り締める手に視線を落としたままで。
「俺は、旅人だ。テイワットの人間じゃない」
 ぽつりと呟いた述懐に、青年は怪訝な表情を浮かべながらも、特に言葉を挟もうとはしなかった。傾聴する意思を示すその姿を横目に、空は大きく息を吸い込んだ。
「目的を達したら、きっと俺はこの世界を出て行く」
「だから、これ以上先生と一緒に居るべきじゃない。そう思ったんだ」

 一度言葉を切り、相手の反応をうかがう。
 受け取った内容を吟味するように、鍾離はしばし考え込んだ後、わずかに首を傾げて少年を見た。
「それは、何故だ?」
「なぜ、って……」
 心底からの疑問をにじませた声に、少年は思わず身を乗り出す。
「それは、先生が一番よく知ってるはずでしょ?」
 朱を帯びた金色と、透き通った黄色が、同じ高さで見つめ合う。いつも見上げていたその瞳が、今はこんなにも近くに。

「長く生きて、親しかった人達に置いて行かれて。
 そうやって『摩耗』したんだって、自分で言ってたじゃないか」
「それを繰り返してたら、いつか先生は……っ!」
 若陀龍王のように、かつて愛した国や人々のことも——そして、空という異邦の旅人と出会ったことも、忘れ去ってしまうのではないか。
『忘れてほしい』『覚えていてほしい』
 まるで水に落とした墨みたいに、矛盾した感情が胸の内でぐるぐると混ざり合い、渦を巻く。
 震えた語尾を隠すように、少年はその先の言葉を呑み込んだ。こんな押しつけがましい言い方をするつもりではなかったのに。自己嫌悪が湧き上がる。
 ごめん、と呟いて、空は姿勢を戻した。波立った感情を鎮めるように深呼吸してから、再び口を開く。

「俺も、いずれ先生を置いていなくなる。だったら……今のうちに離れた方が、お互いのためなんだ」
 半ば自分に言い聞かせるように、一言一言、噛みしめながら告げる。
 心を通わせるほどに、離別の痛みは大きくなる。だから今のうちに、縁を断っておくべきなのだと。
「俺は——先生の傷になりたくない」
 そう、絞り出すように呟いて。
 空は頭を垂れ、それきり口を閉ざした。

 きっと、鍾離は呆れているだろう。
 彼自身に望まれたわけでもないのに、勝手に彼の身を案じて、一方的に離れようとして。
 彼はいつも、過ぎるくらい自分を高く評価してくれていたが、流石に愛想を尽かしただろうか。それでもいい。この人に失望されるのは辛いけれど、そうすれば彼に離別の痛みを味わわせなくて済む。
 空はぎゅっと目を閉じた。どんな反応でも甘んじて受け止めよう、そう覚悟を決めた時。


 頭頂部のあたりに、何かが触れたのを感じた。
 わずかに顔を上げると、こちらへ右腕を伸ばす鍾離の姿が視界の端に映る。

「それほどまでに、お前は——」
 ささやくような、吐息混じりの声。
「俺を、案じてくれていたのか」

 どこか慣れない仕草で、黒手袋に包まれた掌がそっと髪を撫でる。目に見えなくとも、伝わってくる感触でそうとわかった。
 彼に頭を撫でられるなんて初めてだ——そんなことをぼんやり考えながら、空はされるがまま、その手に身を任せていた。


「話してくれてありがとう。お前がどう思っているのか、知れて良かった」
 伸ばしていた右手を戻し、旅人に微笑みかけた後。
 鍾離は再び表情を引き締めると、胸の前で腕を組んだ。
「さて。ここまで聞いた以上、俺からも語らねば不公平というものだな」
 真っ直ぐに少年を見据える瞳が、窓から射し込む光を映して金色にきらめいた。

「確かに、縁を結んだ者との別れは寂しいものだ。しかし、俺は決してそれを厭うているわけではない」
「長き時を生きる者にとって、離別は避けられない。過去の友、懐かしい景色に会えるのは、記憶の中だけだ」
 それでも、と鍾離は続けた。
「俺は、彼らと出会わなければ良かったと思ったことは一度も無いんだ」
「たとえ別れたとしても、共に笑い合い、肩を並べて歩んだ事実が消えることはない。その記憶は、想いは、俺の中に残り続ける」
 言葉と共に、掌を胸に当てる。その内に降り積もった、無数の記憶たちを慈しむように。
「それらは全て、俺にとって何物にも代えられぬ宝だ」
「そのせいで……傷ついて、摩耗したとしても?」
「ああ」
 空の問いかけに、青年は迷うことなく首肯した。

「瑕疵の少ない石ほど、市場では高値がつく。だが、それが全てではない。傷があるからこそ、逆に価値が上がるものも存在する」
 つまりは、それと同じだと。鍾離は事も無げに笑う。
「真に喪失を恐れるならば、俗世と一切の関わりを断つ選択もあった。
 だが俺は、人と共に生き、数多の縁を結ぶ道を選んだ」
 それこそが、自分の望む在り方なのだと。
 ためらいなく言い切って、青年は空と正面から視線を合わせた。

「お前とこうして出会って、友誼を結んだことも。
 俺は、何ひとつ後悔していない」
「……っ!」

 何の衒いもなく示された本音に、少年は息を呑んだ。
 視線、声、表情、知覚した全ての情報が、その言葉は誠実であると裏付ける。ただ自分だけに向けられた金の瞳に、射すくめられて動けない。
「言っただろう? 『鍾離』として、お前と共に旅をした記憶を大切にすると」
 覚えているかと訊かれて、当然だとうなずく。送仙儀式を完遂したあの日、晴れて神としての生を終えた彼が発した言葉だ。
「たとえ、いつか別れる日が来たとしても。
 きっとお前は、俺の記憶の中で『黄金』となって輝き続ける」
 記憶力には自信があるからなと、少しだけ冗談めかして彼が笑う。
「いずれ訪れる別れを恐れて、共に在れる機会を手放すのなら。
 その方が、余程寂しいことではないか」
 強がりでもなく、諦めでもなく。
 どこまでも自然にそう告げて、鍾離は微笑んだ。

「そうだろう? ——『友』よ」


 そう、呼びかけられた瞬間。
 自身の心を縛る鎖が解けてゆくのを、空は確かに感じた。

 ——自分はきっと、怖かったのだ。
 多くの世界を渡り歩く中で、得ては失った無数の縁たち。同じように、鍾離へ向けるこの恋心も、いずれうたかたの夢へと帰さねばならない時が訪れる。
 彼に傷を負わせたくない。それと同じくらい、自分が傷つくのも怖い。だから、捨て去ろうとした。

 けれど、彼は笑って言うのだ。
 別れが避けられないとしても、今を共に生きる喜びを選びたいと。

「俺、は……」
 言葉にならない問いが、頭の中を駆け巡る。
 自分の存在が、共に過ごした時間が、彼の「黄金」となるのなら。
 少しは、摩耗に蝕まれゆく彼の救いになれるのだろうか。
 この世界を去るその瞬間まで——否、去った後もずっと、彼の「友」でいてもいいのだろうか?

「長く生き、多くの知識を得た。その代償に、新鮮な驚きも失われた。
 お前はそんな俺に、未知を見せてくれる貴重な存在なんだ」
 空の思考を読んだように告げて、鍾離は少年へと右手を伸べた。
「もしお前が、真に俺のことを思ってくれるならば。
 お前と共にある時間を、少しでも多く俺の記憶に残してほしい」
 どうだろうか? と差し出された手を、しばし見つめた後。
 少しだけためらいながら、空はそっと、両の掌でその手に触れた。

「……うん。
 俺も、先生と一緒に居たい」

 あれほどひた隠していた素直な本音が、するりと口をついて出る。
 きっと最初から、それ以外は必要なかったのだ。為すべき目的と、彼を慕う想いと、どちらも大切で何が悪いのか。他ならぬ彼の言葉が、そう気づかせてくれた。
 もっと早く開き直れていれば、ここまで迷走することもなかったろうに。ずいぶん遠回りをしたものだと、空はひとり苦笑する。

 がんじがらめの思考をほどいて、自分で自分に嵌めた枷を取っ払って。
 そうして最後に残ったのは、たったひとつの単純な答え。


(鍾離先生が、好きだ)

 少しだけはにかみながら、少年は晴れやかに笑う。
 暗闇の先に答えを見つけた者の、それは心からの笑顔だった。





PAGE TOP