朝方から降っていた雨は止み、灰色の雲の合間から青空が顔を出した。昼下がりの気怠い陽光に、まだ乾ききらない石畳がきらめいている。
 勤勉が美徳とされる璃月で、昼間から酒を飲むような輩は少ない。夜は猥雑に賑わう「三杯酔」も、この時間となれば穏やかなものだった。
 店の奥に置かれた屏風の前で、講談師が扇子を手に声を張る。その語りを聞きながら、やや離れた席にひとり座る青年は、手元の茶に口をつけ——ようとして、それが既に冷めてしまっていることに気づいた。

 講談を肴に料理や酒をたしなむのは、鍾離にとって日々の楽しみのひとつだった。
 席につき、食事に舌鼓を打って、食後の茶を手に講談師の語りに耳を傾ける。それは凡人になって以降変わらない、至って普段通りの日常だ。……その、はずだった。
 冷め切った茶器の中身をじっと見て、青年は無言でかぶりを振った。店員に追加の注文をした後、静かにため息をつく。

 壇上の講談師が一礼し、拍手を受けながら裏へと引っ込んでいく。ずっと聞いていたつもりが、切りの良いところまで語り終えたことにすら気づかなかった。形の整った唇に、自嘲めいた苦笑いが浮かぶ。
 やがて店員がやってきて、茶と付け合わせの点心を卓に並べていった。この調子では、またろくに口をつけないまま冷めてしまいそうだ、などと他人事のように思いながら、鍾離は淹れ立ての茶を一口含む。
 その拍子に、耳元でしゃらりと涼やかな音が鳴った。

 茶器を置き、左耳の飾りにそっと触れる。
 それはしばらく前に、ある友人に頼んで見立ててもらったものだ。彼が選んだ耳飾りは、鍾離自身ではまず手に取らなかっただろう意匠で、一瞬驚いたことを覚えている。
 鍾離はそれをとても気に入っているものの、修理に出していた耳飾りが戻ってきたこともあって、実際に着けたことはまだ数回しかない。死蔵したいわけではないが、無闇に使って傷をつけたくないという気持ちもあり、普段は自室で大事に保管していた。
 しかし今日は、何故かこれを着けたい気分になったのだ。

 この耳飾りを見立ててくれた友人は、ここ一ヶ月ほど自分の前に現れていない。
 風の噂に聞く限り、彼はまだ璃月にいるようだ。だが、以前は三日と空けず鍾離を訪ねてきていたのに、それがぱったりと途絶えた——そう、あの日を境に。
(やはり、信頼を損ねたか)
 物憂げな吐息に、立ちのぼる湯気が揺らいだ。


『五百年前、カーンルイアが滅びた時のこと。
 何か知っているなら、教えてほしい』
 探している家族の手がかりになるやもしれぬ——自分にとって、とても重要なことなのだと。
 切実な光を宿した、黄水晶に似た瞳を前にして。
 ついにこの時が来たかと、そう思った。

 長い沈黙の後、鍾離は正直に旅人へ伝えた。モラクスが七神となるより前に交わした契約により、その問いには答えられない、と。
 返ってきた答えが「知らない」であればともかく、「知っているが教えられない」では、情報を求めている少年には到底納得できなかっただろう。
 それでも彼は、表立って抗議や不満を口にするでもなく、落ち着き払った様子でそれを受け入れた。
『……うん。何となくわかってた』
 予想通りの答えだと、ほんの少しの諦念を交えて頷く空に、鍾離はすまないと目を伏せるしかできなかった。
 契約を司る神であった鍾離にとって、契約を違えることは自身の存在の否定にも等しい。感情では友に手を差し伸べたいと思っても、太古の約定がある限り、それを叶えてやることは出来ないのだ。

 契約を守ることは、自分にとって何よりも優先すべき事項。
 それでも、契約と友情を天秤にかけざるを得ない時は、いつも心が痛む。

 本音を言えば、彼を裏切りたくなどなかった。助けになってやりたかった。
 自身の本意ではないことを伝えはしたが、やはり彼は、全てを知りながら語ろうとしない自分に失望したのだろう。
 だから、あれ以来会いに来なくなった——。


 次の講談が始まった。本来なら好んで聞いていたはずのそれも、今はまるで環境音のように、意識の端を滑っていくばかりで。
 出歩くには向かない日だと自嘲して、席を立とうかと思い始めたその時。

 ピシ、と耳元で微かな音がした。
 次の瞬間、甲高い金属音と共に、何かが卓上に落ちて転がる。
 反射的に音のした方を見て、鍾離は黄金の瞳を見開いた。
 湯呑のすぐ脇に転がったもの。それは、彼が左耳に着けていた耳飾りだった。
 取り上げて検めると、留め具と装飾をつなぐ細い金鎖がちぎれている。それで落ちたのかと納得する一方で、ある疑問が湧いた。
 この耳飾りを購入したのは、つい最近のこと。しかも、まだ数回しか使用しておらず、ほぼ新品も同然だ。それが、いくら繊細な装飾品とはいえ、無下に扱ってもいないのに突然壊れるものだろうか?

 破損した耳飾りを、鍾離はじっと凝視する。
 ——何故か、ひどく嫌な予感がした。


「——そういや、聞いたか? 南天門の方で山崩れがあったらしいぞ」
 無言で手の中の耳飾りを見つめていた青年の耳に、隣の席の会話が聞こえてくる。
「山崩れ? 何だってあんな所で?」
「さあなぁ。つい今朝方のことらしいが、俺も知り合いから聞いただけでさ。詳しい話はわからねえ」
「この間も、あの辺りでやたら地震が起きたことがあったよな。いつの間にか収まってたが……」
「あったなぁ。全く、ただでさえ層岩巨淵が閉鎖されて仕事が減ってるってのに、これ以上の面倒ごとは勘弁してほしいもんだ」

 休憩中の労働者らしき男性二人は、食事をしながら講談を邪魔しない程度の声量で喋っていた。
 他愛ない世間話。普段なら、単なるノイズとして処理される類いの音。しかし、どうしてか今はそれが無性に気にかかる。
 気づけば鍾離は席を立ち、男たちへと歩み寄っていた。

「——すまない。その話、詳しく聞かせてもらえるか」



10


 南天門からやや南西の山間。璃月特有の峻険な山がそびえるこの一帯に、訪れる人の姿はほとんど無い。
 雄大な景色の中、空飛ぶ小さな相棒を連れたひとりの旅人が、朝霧漂う道を歩いていた。岩元素を含んだ風が、編み込んだ金の髪をいたずらに弄ぶ。

 彼がここまで足を伸ばしたのは、先日冒険者協会に立ち寄った際、キャサリンから受けた依頼のためだ。この近辺で不自然な地揺れが観測されており、念のため調べてみてもらえないか、というものだった。
「緊急を要する案件ではありませんので、近くに寄ることがあればで構いません」
 手伝っていただけますかと遠慮がちに問うキャサリンに、旅人は快く承諾を返した。

「そう言えば、ちょっと前にもこんなことあったよな。地震が頻発してるから調べてくれーって言われてさ」
「そうだね。あの時は、魔物が原因だったけど……」
 今回もそうなのだろうか。空の予想に、パイモンはうーんと首を捻る。
「けど、あいつの棲み処からここまでは結構距離があるし、さすがに違うんじゃないか?」
「原因は同じでも、それを引き起こしてる犯人は別って可能性もあるよ」
「そ、それって、アレとは別の化け物が出てくるかもってことか!?」
 パイモンの顔が一気に青ざめる。
「うぅ……お、オイラたちだけで本当に大丈夫か?」
「大丈夫、今回は調査するだけだし。それに、俺の力は知ってるでしょ」
「そりゃ、お前の腕前は信じてるけどさぁ……」

 パイモンはどこかそわそわと、旅人の方を横目でうかがうような素振りを見せていたが、やがて思い切ったように口を開く。
「な、なあ旅人。やっぱりこういう時は、この土地に詳しい奴に頼った方がいいんじゃないか? ほら、鍾離ならきっと……」
「パイモン」
 皆まで言わせず、少年は静かに彼女を制した。う、と言葉に詰まったパイモンが、誤魔化すようにくるくると宙を舞う。
「だ、だって……」
「言っただろ? もうあの人には頼らないって」
 突き放すような口調に、少女が心なしか首を縮める。
「今は凡人でも、彼が七神の一柱であった事実は変わらない。俺が探してるあの神と、通じてる可能性だってある」
「だから、信用しちゃダメなんだ。
 その証拠に、カーンルイアのことを訊いても、何も教えてくれなかったじゃないか」
「それは、そうだけど……でもオイラ、鍾離はたぶんお前の敵じゃないと思うぞ……」

 ——そんなこと、とっくに解ってる。
 身勝手だと知りながら、パイモンの言葉につい理不尽な苛立ちを覚えてしまう。
「あの人は、信用できない」
 自分に言い聞かせるように繰り返す。自らそう口にしておきながら、心がきりきりと痛んだ。


 あの日を最後に、鍾離とは会っていない。
 若陀龍王の魂を見送った後、空はカーンルイアの滅亡について知っているか、と彼に訊ねた。
 彼は眉を寄せ、長いこと沈黙していた。じっと何かを迷うように考え込み、そして。
『……それは、俺の口から語ることはできない』
 静かに一言、告げた。

 何故だと詰め寄るパイモンとは対照的に、空は不思議と納得していた。
 妹に関する手がかりを得られなかった落胆も確かにあったが、それ以上に、彼が見せた態度への驚きと共感が勝ったのだ。
 こちらの問いに口を閉ざす選択をした時、彼は確かに苦悩し、葛藤していた。
 最古の神であっても——否、だからこそ万能ではなく、抗えぬ理と宿命に縛られている。その事実を、空はもう知ってしまった。
 契約に背けと彼に迫るのは、自分に妹を諦めろと言うようなものだ。そう理解すれば、空にはそれ以上彼を問い詰めることはできなかった。

『俺は、お前を友だと思っている』
『お前を失望させるのは俺の本意ではない。だが契約の神として、この契約を破ることはできない』
 こちらの目を真っ直ぐに見つめて、彼はそう言った。
 あくまでも誠実に向き合おうとする鍾離の言葉を、空は嬉しく思い、同時に嘆きもした。いっそ冷たく突き放してくれたなら、少しは彼への想いを断ち切りやすくなっただろうに。


 最後に見たのは、一度だけ振り返った時、石碑の前に佇んでいた後ろ姿。
 少しだけ寂しげなその背中が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。

 信用できないなんて、どの口が言うのか。空はひとり自嘲する。
 彼が嘘を言っていないことなど、あの時とっくに解っていた。彼を遠ざけるのは、ただ未練がましいこの感情を断ち切りたいからだ。
 それを隠そうと、もっともらしい方便を並べ立てるたび、心が嫌な軋みをあげる。彼を悪し様に言いたくない、悪いのは自分なのに、と。

 ——それでも。
 彼を傷つけるくらいなら、自分が傷つく方が余程いい。

 空は唇を噛み、天を仰いだ。灰色の雲が重く垂れ込め、地平線に昇ったばかりの陽の光を遮り始めている。
 もうすぐ雨になるだろう。足を速める旅人の後を、パイモンが慌てて追いかけた。



 どこからか、微かに水滴の落ちる音が響いてくる。
 周辺を探索するうち、岩肌に開いた洞穴を発見した旅人とパイモンは、慎重にその内部へと踏み入った。今のところ、濃密な岩元素に満ちている以外、特に異常は感じられない。
 狭い路をしばらく進むと、二人の視界が突如として開けた。先程までの通路とは打って変わった、広い空間。高さもゆうに空の身長の三倍はありそうで、さながら岩のドームといった趣だ。
 外に通じる裂け目があるのか、頭上からは細い光が幾筋か射し込み、視界はさほど悪くなかった。何か手がかりがあるかもしれないと、二人は周辺を調べ始める。

「うーん……特に何もないみたいだな」
 一通り空間を歩き回った後、パイモンが拍子抜けしたように言った。
 岩壁に手を当ててみると、ひんやりした感触が伝わってくる。水が岩を穿って出来た天然窟だろうか。それにしては壁の削れ方が荒いような、と空は首をひねる。
 足下が微かに揺れて、小石の転がる音がした。この地を訪れて以降、何回かこういった地揺れを感じている。ここに長居すべきではない——旅の中で培った勘がそう報せていた。
 そろそろ出よう、空がそうパイモンに声をかけようとした時。

 不意に、突き上げるような揺れが旅人の足下を襲った。とっさに体勢を立て直した少年の耳は、地の底から響くような、地鳴りとも唸り声ともつかない重低音を捉えていた。
「うわわっ!? な、何だぁ!?」
「——パイモン!」
 旅人の鋭い声に弾かれたように、パイモンがその場から飛び退く。次の瞬間、つい今まで彼女が居た真横の岩壁が轟音と共に崩れた。
 ばらばらと飛び散る石塊。立ち上る土煙を突き破って現れた巨体に、空は見覚えがあった。

「え、エンシェントヴィシャップ!? なんでこいつがこんな所にいるんだ!?」
 上空に逃げたパイモンの焦った声が聞こえる。空は油断なく剣を構え、突然の闖入者を睨む。
 その視線に反応するかのように、巨獣はぶるりと身を震わせ咆哮を上げた。ぱちぱちと弾ける紫電をまとい、巨大な前腕が少年めがけて振り下ろされる。
「あ、危ないぞ!」
 パイモンの悲鳴と同時に、空は大きく後ろへ跳ぶ。魔物の一撃が地面を砕き、破片をまき散らした。
 飛んできた石のかけらを剣で払いのけ、地を蹴る。岩元素で鎧われた魔物の外皮は堅く、下手に打ち合えばこちらの得物が折れてしまいかねない。
 ならば、どこを狙うべきか。足元に風を起こし、少年はさらに大きく跳んだ。小柄な体躯が巨獣の頭を軽々と飛び越え、首の後ろへと着地する。比較的皮膚の柔らかい喉元めがけて、旅人の剣が閃く。
 目論見通りに刃は通った——が、浅い。苦痛に暴れる巨体に振り払われ、空中で姿勢を制御しながら地面へと下りる。

 ここからどう動くべきか、空は頭の中でいくつかのシミュレーションを走らせた。
 洞穴が崩れる可能性を考えると、この場で戦い続けるのは危険だ。相手を外へ引っ張り出すか、あるいは隙を見て逃げるか——
「くっ……!」
 空気が帯電し、髪が逆立つ。怒りの咆哮と共に放たれた雷をとっさに回避し、空は相棒へと叫んだ。
「パイモン! 外へ!」
「お、お前はどうするんだよ!?」
「俺も出る、パイモンは先に上から……」
 言い終えるより先に、怒り狂ったエンシェントヴィシャップが再び迫ってきた。生意気にも己に手傷を負わせた、ちっぽけな敵を一息に押し潰さんと、その巨体がのしかかってくる。
 引くか、攻めるか?
 迷いは一瞬。直感にまかせ、少年が動いた。
 巨躯が倒れてくるより先に、その顔めがけて地面を蹴る。風元素で加速した勢いを乗せ、渾身の力を込めて巨獣の喉元へ剣を突き立てた。

 グアアアアアアァァァッ!!
 苦痛と憎悪に満ちた雄叫びがこだまする。
 狂ったように暴れる魔物から、空は大きく飛び離れた。そのまま振り返ることなく、元来た道の方へと全力で駆け出す。とどめを刺していたら間に合わないと、彼の勘が警鐘を鳴らしていた。
 その判断は正しかったが、最悪の事態は予想よりも早く訪れた。のたうち回る巨獣の四肢が周囲を破壊し、岩壁に次々とひび割れが走る。頭上からばらばらと振ってくる瓦礫が、もはや一刻の猶予もないことを告げていた。

「ま、まずい、崩れるぞ!」
「パイモン、逃げろ!」
 慌てて舞い上がる相棒の姿を視界の端で確認し、少年は全力で出口へと駆けた。
「ッ!?」
 首筋にちり、と火花のような感覚が走る。反射的にブレーキをかけた瞬間、鼻先に彼の身の丈ほどもある岩が落ちてきた。もし走り続けていたら、今頃この岩の下敷きになっていただろう。空の背中に冷たい汗が流れる。
 だが不可抗力とはいえ、ここで足を止めたのは致命的なロスだった。次々と岩塊が降り注ぎ、外へ続く道を塞いでしまう。それでも諦めず、岩元素で瓦礫の除去を試みる少年の頭上で、ついに轟音と共に岩の天蓋が崩れ落ちた。
 見開いた瞳に映るのは、圧倒的な質量をもって迫る岩の雨。

「空——ッ!!」
 己を呼ぶ悲痛な叫びに、彼女だけは無事に逃げおおせてくれと願って。
 それを最後に、空の意識はぷつりと途切れた。





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