10
世界は今、死にも似た静寂の中にある。
ベオクとラグズの大半が石と化した世界で、アイク達は女神ユンヌの指示に従い、西回りのルートでベグニオン帝都シエネを目指していた。
女神アスタルテの加護を受けた「正の使徒」達の襲撃等、行程は決して楽なものではなかったが、それでも誰一人欠けることなく、一行はタナス領の端にある小さな町までたどり着いた。
既に日は沈み、辺りは濃い闇に覆われ始めている。
誰一人動く者の無い町で、彼らは一晩を明かすことにした。
※
仲間達から離れ、キルロイはひとり佇んでいた。
彼の目の前には、古びた木製の扉。
「正の使徒」は神出鬼没——いつ、どこから襲ってくるか解らない。単独行動は出来る限り控えるべきだった。あまり時間は無い。
そっと手を触れると、年期を感じさせる軋みを響かせながら扉が開く。
人ひとりが通れる程度の隙間から、青年は静かに中へと滑り込んだ。
普通の民家と大差ない広さの内部には、申し訳程度ではあるが祭壇が設けられていた。その上の壁には、小さいながらも美しい輝きを放つ女神アスタルテの像が飾られている。
それを一度見上げてから、キルロイはゆっくりと祭壇の前に片膝を突き、両手を組んで頭を垂れる。
習慣として刻まれた、神への祈り。
けれど——とキルロイは思う。
女神アスタルテに楯突こうとしている今、自分は、誰に祈りを捧げるというのだろう?
青年に神への信仰を教えたのは、彼の両親だった。
二人はとても敬虔な信者であり、どんな時でも女神への感謝を欠かさなかった。
だが、そんな両親も、おそらくはあの「裁きの光」で石と化したはず……組んだ両手が震えた。
この目で確かめたわけでは無いけれど、特に力も持たぬ民間人である彼らが裁きを逃れることは絶望的だと、キルロイも覚悟している。
神は応えぬもの——そう教えられてきた。
信仰は人間が勝手に行っているだけであり、それに対し見返りを与える義務など神にあるはずも無い。報いを期待するのではなく、ただ日々を恙なく生きられる幸福に感謝せよと。
そうと解っていても、一心に信仰を捧げてきた者が、他ならぬ女神自身によって石と変えられた現実を、キルロイは理不尽だと思わずにはいられなかった。
胸にぽっかりと穴が空いたような、空虚な感覚。
自身が拠り所とし、ずっと大切にしてきたものが、突然根底からひっくり返された。
何が正しくて、何が誤りで。祈りは、何のために。誰がために。
今となっては、何もかもが解らない。まるで灯火を失い、宵闇の中立ち尽くす旅人のように。
ここへ来るまでに、アスタルテの加護を受けた者達と幾度か戦った。
ただ盲目に、女神への信仰を叫びながら武器を振りかざす「正の使徒」達。
もし、立場が少しでも違っていたなら。彼自身も、同じ道を辿っていたかも知れないのだ。
否——そもそも彼らと自分と、何処が違う?
ただ神に縋り、唯々諾々と祈るだけだった自分が、彼らとは違うとどうして言えるだろう?
深く深く息を吐き、キルロイは閉じていた瞼をそっと開く。
ひざまずいた姿勢から立ち上がり、もう一度正面の女神像を見上げた、その瞬間。
「——長い祈りだったね」
突如響いた声に、キルロイは弾かれたように背後を振り返った。
いつの間に現れたのだろうか。申し訳程度に据え付けられた長椅子の端に、翡翠色の鎧に身を包んだ騎士がひとり座っていた。
「お、オスカー!? どうして……」
動揺の滲む声でその名を呼ぶと、青年——オスカーは静かに椅子から立ち上がる。鎧の金具が擦れ合い、がちゃりと音を立てた。
その金属音も、古びた扉を開けた時の軋む音も、決して小さくはなかったはずだ。それらに一切気づかないほど、祈りという名の思考に埋没していた自身を省みて、キルロイは無性に気恥ずかしくなった。
「君が隊から離れるのを偶然見かけて、ね。
邪魔をしたくはなかったんだが、今の状況下で単独行動はまずい。いつどこから敵の襲撃があるかわからないからね」
「……うん。
ごめん、迷惑かけたね。すぐに戻るよ」
また、友人に世話をかけてしまった。キルロイは目を伏せ、足早に出口へと向かう。
騎士の傍らを通り過ぎようとした時、左肘のあたりをそっと掴まれ、彼は反射的に立ち止まった。ごく弱い力ながら、はっきりと引き留めようとする意思が、触れられた部分から伝わってくる。
戸惑いの目で見上げれば、青年はいつもの穏やかな笑顔で言った。
「——少し、話でもしないかい」
本音を言えば、今はあまり他人と話したい気分では無かった。しかし自分の身を案じてくれる友人にそう告げることも憚られて、キルロイは促されるまま、彼と並んで長椅子に腰を下ろす。
「……私自身は、さほど神というものを意識したことが無くてね」
正面の祭壇、そこに鎮座する女神像を眺めながら、オスカーが口を開く。
「勿論、その存在については物心ついた時からいろんな伝承で耳にしてきたが、あくまで単なる神話という認識以上のものは無かったように思う」
心地良いバリトンで語られる言葉を、キルロイはじっと俯き加減で聞いていた。
「——けれど、そんな不信心な私でも、君が祈りを捧げる姿、君が謳う聖歌は、とても美しいと感じたんだ」
「……!」
予想外の賛辞に、キルロイの頬がわずかに紅潮する。それを知ってか知らずか、正面に視線を向けたままオスカーは続けた。
「それはきっと、君が神への純粋な信仰心を持っているからだろう。
君が日々欠かさず祈りを捧げる姿を、ずっと見てきた。君の中で女神への信仰がどれほど大切なものであったか、友人としてそれなりに理解しているつもりだ」
そこで初めて、青年は傍らの友人へと視線を向けた。
「だから。……大丈夫かい?」
「……」
覗き込んでくるその瞳を、キルロイは正面から見つめ返すことが出来なかった。強張る唇を無理矢理叱咤し、微笑みの形を作る。
「……心配してくれてありがとう。僕なら大丈夫だから」
それはきっと、彼には予想通りの答えだったろう。微かに動いた表情から、それが察せられた。
「僕は、傭兵団の皆と共に居るって決めたから。この世界を、元に戻すって」
「……」
「だから、大丈夫。僕も皆と一緒に、戦うよ」
人の機微に聡い彼には、きっと見抜かれてしまうのだろうと。
そうと知っていても、キルロイはただ「大丈夫」と繰り返す。この優しい友人に、これ以上余計な気を遣わせたくはなかったから。
黙って彼の返答を聞いていた騎士は、やがてふうっと大きく息を吐いた。そして身体ごと、傍らの友人へと向き直る。
「——三年前、だったか。
あの夜、君が私に言った言葉を覚えているかい?」
あの夜。
具体的に説明されずとも、キルロイには解った。古びた砦のバルコニーから見た夜空が、ありありと脳裏に蘇る。
「あの時の台詞を、そっくりそのまま君に返すよ」
一旦言葉を切ってから、たった一言——低く告げる。
「『嘘つき』」
「……っ!!」
息を呑む。
三年の時を経て返ってきた、かつて自身が相手に叫んだ言葉。
「辛い時には無理をするな——君は私にそう言ってくれただろう?」
静かに、諭すように。
上体をわずかに屈め、目線を正面から合わせて、オスカーが語りかけてくる。
「君があの時そう言ってくれたから、私は救われた。
だから、今度は私の番だ」
「……オスカー……」
そっと、手が左肩に触れる。支えようとするかのように。
「辛いなら、頼って欲しい。
私で良ければ、君の気が済むまで傍に居るから」
「……っ、う……ぅ」
蓋をして、堰き止めてきたものが、溢れる。
手で拭っても拭っても、次々と頬を流れ落ちていく雫。みっともない泣き顔を見せたくなくて、友人の右肩に額を押しつける。冷たい金属の鎧に、ポツポツと水滴が落ちた。
「も……何もっ、考えられ、なくてっ……!
ずっと……信じてきた、のにっ……全部っ、ひっくり返されてっ……どうして、いいかっ……」
「うん」
「ぼ、僕もっ……同じにっ、なっちゃうんじゃないかって……怖くて、っ……あの、使徒達みたい、にっ……」
「うん」
しゃくり上げながら、途切れ途切れにこぼす述懐を、オスカーはただ穏やかに頷きながら聞いていた。諭すでもなく、励ますでもなく、内にわだかまる思い全てを吐き出させてしまうかのように。
自身を包み込む優しさに甘えて、キルロイはひたすら泣き続けた。吐露する感情も言葉も尽き、ただ涕泣しか出なくなるまで。
「……ごめん。もう、大丈夫」
深呼吸をひとつして、キルロイは友人から身を離した。真っ赤になった目元を隠すように、ぐしぐしと袖で顔を擦る。
「うぅ、みっともないなぁ……この歳になって……」
「泣きたい時に泣けるのは立派な事だよ。恥じる必要など無いさ」
私と違ってね、と。
やや自嘲混じりの呟きを、キルロイは聞いた気がした。
「落ち着いたかい?」
「……うん。ありがとう」
涙は既に止まっていた。もう一度深く呼吸して、青年はぽつりと呟く。
「一度は……諦めようかと、思った」
遠くを見るような視線。その先には、物言わずただ佇む女神の偶像がある。
「長い歴史の中で、幾度となく争いを繰り返している僕らは、確かに滅ぼされても仕方の無い存在なのかも知れない」
「それが神の御心ならば……それに従うべきなんじゃないか、って」
「……」
オスカーは黙って聞いている。
「でも。
全てが崩れて、完全な白紙になって……そのおかげで、見えてきた気がするんだ」
信仰という拠り所を失った絶望の中で、キルロイは己自身を改めて見つめ直すことを迫られた。
何のために、誰がために、己は祈りを捧ぐのか——幾度となく繰り返される自問自答の果てに、彼が見いだした答えは。
「僕には、世界を一方的に滅ぼそうとするあの女神が、自分の信じる『神』の姿だとは——どうしても思えない」
自らが生み出したはずの被造物達の声に一切耳を傾けることなく、問答無用で破滅の光を放った「正の女神」。それは、親が我が子を無慈悲に殺すも同然の行為ではないのか。
神が人間の価値観で計れぬ存在であることは解っている。神が慈悲深いものであるなどというのは、あくまで自分たち被造物が勝手に作り上げた理想像に過ぎない。かの女神からすれば、この世界における「不良品」たる自分達は、慈悲を与える価値すら無い塵芥でしかなかったのだから。
今まで人が築き上げてきた信仰を打ち砕くかのように、示された神の意思。
「正の使徒」となった者達は、どこまでもそれに従うことを選んだ。
——では、自分は?
「僕は、このまま大切な人達が『裁かれて』いくのを、黙って見ていることなんて出来ない。たとえ、それが神の意思であったとしても」
だから、とキルロイは大きく息を吸い込み、決意を吐き出す。
「僕は、皆と一緒に、女神アスタルテと戦うよ」
全てが崩れ、ゼロになった後。
まっさらになった心に残ったのは、ただ仲間達と共に在りたいという、単純で純粋な願い。
たとえ神に背いても、自らが今まで信じてきたもの、そして愛する者達を守る。それが、キルロイの出した結論だった。
全てが暗闇に呑まれたわけではない。自身を導く灯火は——まだここにあるのだと。
「——君は、強いな」
心底感心したように、オスカーが呟いた。その口調には心からの敬意が込められていて、キルロイを面映ゆい気分にさせた。
「強くなんてないよ……オスカーがこうして話を聞いてくれなかったら、きっといつまでも迷ったままだった」
「少しでも役に立てたのなら、あの時の恩を返せたというものだな」
そう言って、騎士は静かに長椅子から立ち上がった。釣られるように、法衣の青年も席を立つ。あまり長居して、仲間達に心配をかけるわけにもいかない。
素朴ながらも丹精込めた彫刻の施された扉を、そっと押し開ける背中を見つめ、キルロイは迷いながらも口を開いた。
「……オスカー、ひとつ訊いてもいいかな」
「うん?」
肩越しに振り向いた青年へ、一瞬の躊躇の後に問う。
「君は、僕が正の使徒みたいに、仲間を裏切って女神の側につくんじゃないかって……考えなかった?」
「いや。考えもしなかったな」
あまりの即答に、問うたキルロイの方が呆気に取られる。
「ど、どうして……?」
問われたオスカーはうーん、と顎に手を添えて考える仕草をした。
「君が我々と敵対する事態なんて想像できないから……かな」
いや、とかぶりを振る。
「想像できない、ではなく、想定したくなかったのかも知れないな。君に刃を向けるという事態を」
そう言って、彼はほろ苦く笑った。
※
静まりかえった街角に、ふたり分の靴音だけが響く。
少し後ろをついてくる気配を背中に感じながら、オスカーは考える。
もし、キルロイが正の使徒として、自分達の前に立ちはだかったとしたら——
果たして自分は、彼を害する事が出来るだろうか?
勿論、あらん限りの手を尽くして説得はするだろう。それでも、彼が仲間との絆よりも、神への信仰に殉ずることを選んだとしたら?
家族を守る為に、その身体へ刃を突き立てることが出来るのか——?
頭を振り、埒もない思考を振り払う。
彼は既に選び取ったのだ。神に背いてでも、仲間と共に在る道を。今更そのような可能性を論じるのは、彼への侮辱ではないか。
同時に、彼がその選択をしてくれた事を、嬉しいと思う自分がいて。
あらゆる事態を想定するのが半ば癖になっている自分が、キルロイ本人に問われるまで、彼の裏切りや敵対といった可能性を一切考慮していなかった。
彼を信頼している? 当然、それもあるだろう。だが、果たしてそれだけだろうか?
オスカーは気づく。彼が自分と共に在る、それが自身にとっての「普通」になっている事実に。
これまでも、これからも。
彼と共に、肩を並べて歩んでいけたら。
そう願う自身がいる事を、この時オスカーは初めて自覚した。