夕刻。
 この日、夕餉の食卓にはほぼ全ての団員が顔を揃えていた。
 仕事で不在のグレイルと――もう一人を除いては。

「……あれ? キルロイは?」
 卓を囲む面子をぐるりと見渡し、ミストが首を傾げる。
「……体調が優れないみたいだから、自室で休ませているわ。
 一応声はかけたんだけど、食事は要らないって」
 しばしの間をおいて、彼女の疑問に答えたのはティアマト。
「そうなんだ……大丈夫かなあ、キルロイ」
「……今日、初めて任務に出たんだったよな。怪我でもしたのか?」
 気遣わしげに表情を曇らせる妹の隣で、アイクがぼそりと問う。顔はいつも通りの無表情だが、彼なりに青年の事を案じているようだった。
「いえ、それは大丈夫よ。
 初めての戦いで緊張したでしょうし、疲れが出たのかしらね」
 ティアマトの説明に、この場に居ない青年への気遣いを口にする仲間達。
 そんな光景を、オスカーは一言も発さずただ静かに見つめていた。


 和やかな夕食が終わり、めいめいが自室へ引き取った後。
 誰も居なくなった厨房で、青年は一人残って作業をしていた。

「――オスカー」
 背後からかかった声に振り向くと、扉にもたれるように立っているティアマトが居た。
「副長。どうかしましたか?」
 その問いには答えず、彼女はオスカーの傍らまでやって来ると、おもむろにその手元を覗き込む。
「……それ、キルロイの分ね?」
「……はい。
 何も口にしないのは、身体に良くありませんから」
 首肯して、香ばしく湯気を立てる鍋を杓子でかき混ぜる。そんな青年の答えに、ティアマトは静かに微笑みを浮かべた。
「そうね。貴方の料理なら、きっと何よりの差し入れになるわね」
 その言葉に、オスカーはしばし沈黙した後――ゆっくりと口を開く。

「……余計な世話かも知れません。
 落ち着くまでそっとしておくのが、本当は良いのかも知れない」
 けれど、とどこか独り言のような調子で、彼が続ける。
「友人として、どうしてもこのまま放ってはおけないんです。
 ……私の、悪い癖ですね」
 自嘲気味に笑う青年に微笑みを返し、ティアマトはすっと表情を引き締めた。

「――私からもお願いするわ、オスカー。
 どうか、キルロイの力になってあげて頂戴」
 ぐつぐつと煮立った鍋へと視線を移して、女騎士は言葉を続ける。
「私も、この団を紹介した立場として、彼の力になりたいと思っているわ。
 けれど、私はこの団の副長であり、彼の上役――下手に今の彼に接触すれば、余計な重圧を与えてしまいかねない」
 そう語る彼女の横顔には、長の片腕として団員を指導する立場ゆえの苦悩が滲んでいた。
「だから、貴方が適任なの。
 年の近い友人として、対等な立場で話せる貴方なら、きっと彼も胸の内を明かせるでしょうから」
 かの青年が団にやって来た時から、彼ら二人がゆっくりとではあるが友情を育んでゆく様子を、ティアマトも見てきている。ここでオスカーが動くだろうことは予想していたし、だからこそ彼に自身の願いを託そうと思ったのだ。

 上司からの真摯な視線を受けて、オスカーはしばしの沈黙の後、ふっと穏やかな笑顔を浮かべた。
「……そこまでの自信はありませんが、期待に応えられるよう善処します」
「ええ、お願いね」
 慈しみに満ちた微笑みを残し、厨房から去っていくティアマト。その背中を見送ってから、青年は再び竈の方へと向き直る。
 弱火に掛けられた鍋の中身が、湯気の向こうで静かに出来上がりを待っていた。



 ――どのくらい眠っていたのだろうか。
 開く事を拒むかのように重い瞼をどうにかこじ開けると、既に部屋の中は暗闇に包まれていた。
 寝台に横たわったまま、キルロイはぼんやりと天井を眺める。
 窓を遮るカーテンを少しずらせば、見える月の位置からおおよその時刻は把握出来るだろう。しかし、その為にほんの少し腕を持ち上げる事すらも、今はたまらなく億劫に感じるのだった。

 任務から帰還した後、ティアマトから休むように言われ自室に戻った。おそらくはずっと眠っていたのだろう……前後の記憶が曖昧だけれど。
 先刻、部屋の外から夕食に呼ぶティアマトの声で目覚めた事は覚えている。食欲が無い為欠席する旨を伝えた後、再び眠りに落ちていたらしい。
 徐々に鮮明に取り戻される記憶を手繰りながら、青年はゆっくりと半身を起こした。


 カーテン越しの月明かりだけが射す闇の中、昼間見た光景がありありと蘇る。
 ――目の前で起きた、惨劇。

 もっとも、傭兵ならばあれを惨劇などと言う者は居ないだろう。
 傭兵にとっては、あれが日常。仕事をする上で、至極当たり前に起こる結果に過ぎない。
 だが、ついこの間まで静かな農村で普通の暮らしをしていた青年にとって、それはあまりにも衝撃的な体験だった。

 他人から明確な殺意を向けられたのも。
 あわや命を奪われそうになったのも。
 人が殺される瞬間を目の当たりにしたのも。
 それら全て――今までの彼の生活には存在しなかった、現実。

 あの時の、全身の毛が逆立つ感覚をまざまざと思い出し、キルロイは無意識に両手でぎゅっと己が肩を抱き締める。
 これから何度同じ事を経験しようと、自身がそれに慣れるとは到底思えなかった。
 自らの身が傷つくだけならば、まだ良い。だが傭兵として働いていれば、敵味方を問わず誰かが傷つき死んでゆく様を、否応なく目の当たりにする事になる。
 その現実を受け止める勇気が自分にあるのか――キルロイは自問せずにいられなかった。

 自分は武器を持てない。戦ったことも無い。
 本当は、血を見るのすら怖い。
 まして自ら人を殺すなど、恐ろしくて想像すらしたくなかった。

 そんな人間が、果たして傭兵としてやっていけるのだろうか――?


 コンコン。

 その時、微かに音が聞こえたような気がして、キルロイはのろのろと顔を上げる。
 気のせいかと思っていると、部屋の外から小さいながらも確かに名を呼ぶ声がした。
「――キルロイ、起きているかい?」
 耳に心地良い柔らかなバリトンは、ここ一ヶ月ですっかり聞き慣れたもの。
「……オスカー……?」
 応えたつもりのその声は、自身が思っていたよりもずっと小さく、掠れていた。思えば水分すらも口にせず、ずっと眠っていたのだから当然か。
 二、三度軽く咳をしてから、キルロイは緩慢な動作で寝台を降りて扉へと歩み寄った。

 簡素な造りのドアを開くと、その隙間から廊下の明かりが射し込んでくる。
 さほど光量の無い燭台の灯りでも、暗闇に慣れた目には十分な刺激だった。眩しさに細めた視界に、光を遮るように長身の影が現れる。
「すまない、起こしてしまったか」
「……ううん、大丈夫だよ。ちょうど目が覚めたところだったから」
「それなら良かった。
 ……少し、部屋に入れてもらっても構わないかい?」
 そう訊ねる青年が布を掛けたトレイを手にしていることに、キルロイはそこで初めて気づいた。
 わざわざ食事を届けに来てくれたのか。相変わらず食欲は無かったが、自分のためを思って手間をかけてくれた友人を無碍に追い返す事も出来なかった。
「……いいよ。どうぞ」
 一瞬の逡巡の後、キルロイは扉を大きく開けて青年を招き入れた。

 ドアの閉まる音を背中で聞きながら、壁に掛けたカンテラの中の蝋燭に火を灯す。薄青い闇に閉ざされていた部屋が、弱いながらも暖かいオレンジの光で照らし出された。
「食事を持ってきたから、冷めないうちに食べると良い」
「……ありがとう。でも……」
「食欲が無いのは解るけれど、だからと言って何も食べないでいると、余計に回復を遅らせてしまう事になる。
 消化の良いものを、少しでもいいから口にした方が良い」
 寝台に腰を下ろしたキルロイの前で、オスカーは手にしていたトレイをサイドテーブルに置く。被せてあった布が取り去られると、その下から作りたてと思しき温かそうなスープと、薄く切ったパンが現れた。
「……これ、オスカーが作ったの……?」
「口に合うかは解らないけれどね。
 今日の夕食は、あまり消化に良いとは言えないメニューだったものだから」
 トレイの中身を見るまでは、てっきり自分の分の夕食を温めなおして持ってきてくれたのだろうと思っていただけに、キルロイは驚きを禁じ得なかった。
 そんな彼を穏やかに一瞥して、オスカーはそれに、と言葉を続ける。
「……野菜だけで作ったものの方が、良いだろうと思って、ね」
「……!」
 その言葉の意図するところを悟り、キルロイは息を呑む。
 確かに、今は肉を口にするどころか、目にすることすらもきつかった――体調ではなく、精神的な面で。

 彼がそこまで気を回して、わざわざこれを用意してくれたのだと思うと、口にしないのはあまりにも申し訳が無くて。
「……じゃあ、少しだけ」
 頂きます、と手を合わせてから匙を取る。
 野菜をたっぷり使ったスープからは、香草の甘く柔らかい匂いがした。その香りを嗅いだ途端、腹の辺りが軽く鳴って、それが向かいに座る青年に聞こえたのではないかと焦る。
 あまりに現金な自身の身体に呆れつつ、キルロイは恥ずかしさを誤魔化すようにスープを掬って口に運んだ。

「……美味しい」
 自然、口元が綻ぶ。
 温かいスープが喉を通り胃へと落ちていく感覚に、疲弊した身体も心も解きほぐされるようだった。
「はは、良かった」
「心配しなくても、オスカーの料理が美味しくなかった事なんて無いのに」
「いや、料理の事もあるけれど。
 ……君が、ようやく笑顔になったから、ね」
「……え?」
 二口目を掬おうとした匙をぴたりと止め、鳶色の双眸を瞬く。その顔を穏やかな眼差しで見つめ、オスカーはややトーンを落とした声で告げた。
「――ここに戻ってきた時の君の顔色は、まるで病人のそれだった。
 それこそ、倒れなかったのが不思議なくらいに」
「……」
 手にしていた匙を置き、キルロイが俯く。

 あの時は、気にしている余裕など無かったけれど――今思えば、自分は相当みっともない風体だっただろう。
 出先から砦に戻るまでも、この友人がさりげなく支えていてくれなければ、途中で倒れていたかも知れなかった。

「差し出がましいとは思うし、無理にとは言わない。
 だが、もし君がそれで少しでも楽になるのであれば……思うところを、遠慮なく話して欲しい」
 優しく、けれど押しつけがましくは無く。そう告げて、青年は静かに口を閉ざした。

 部屋に沈黙が落ち、蝋燭の芯の燃える微かな音だけが響く。

「――僕の叔父は、傭兵だったんだ」
 静寂の中、キルロイが不意にぽつりと呟いた。
 脈絡の無いその述懐に、オスカーは微かに眉を動かしたものの、口を挟むことはせず黙って耳を傾ける。
「病弱な僕を、とても可愛がってくれた人で。
 たまにしか会えなかったけれど、いろんな国の話をたくさん聞かせてくれた」
 懐かしむように鳶色の双眸を細め、キルロイはぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「叔父の語る話は、知らない事ばかりで。
 自分の家がほぼ世界の全てだった僕にとって、それはとても魅力的に映ったんだ」
 生まれつき体が弱く、外で元気に遊ぶことすら満足に叶わない少年に、叔父は自身が見てきた異国の情景を話して聞かせた。
 そんな世界をこの目で見てみたくて、自身も傭兵になると夢を語った時も、その人は笑い飛ばす事なく頑張れと心から励ましてくれた。そんな幼き日の思い出が、鮮やかに脳裏に蘇る。
「世界を飛び回る叔父は、僕の憧れだった。
 だから僕は、いつか自分も傭兵になるんだって……そう、夢見てた」
 伏せていた顔を友人へと向け、青年は柔らかな微笑みを浮かべた。
「この団に雇ってもらえて、ここの生活に馴染んでいって。
 夢が叶ったみたいで、嬉しかった」
 そこで、キルロイは一旦言葉を切った。
 一瞬目を閉じ、再び開く。

「でも、やっぱり無理だった」
「……」
 顔は変わらず、微笑んだまま。
 しかしオスカーには、それが逆に彼が心に受けた傷の深さを物語っているように思えた。
 諦観した、空虚な笑み――彼は、こんな風に笑う人だっただろうか?

「憧れだけでやっていけるような、そんな甘い世界じゃないんだって――思い知ったよ。
 命を奪う事、奪われる事への覚悟が無ければ、傭兵には到底なれないんだ」

 一人殺せば罪人、百人殺せば英雄。
 枕元で母が読み聞かせてくれた昔話の英雄が、そう呼ばれるまでにどれほどの命を奪わねばならなかったのか……考えたことも無かった。

「すぐ傍で人が死んで、その姿を目の当たりにして。
 戦うどころか、まともに立ってすらいられなかった」
 自分は――弱すぎる。
 戦場で直視せねばならない現実を受け止めるには、あまりにも。

「こんな僕じゃ……傭兵として働くなんて無理、だよね……」
 ぎゅ、と両の拳を握り締め、キルロイは俯く。
 指の間接が白くなり、小刻みに震えていた。


 胸の内を語る友人の様子を、静かにじっと見守っていたオスカーは、その言葉を受けてしばし思案するように瞳を閉ざす。
 やがて瞼を上げたその表情は、穏やかな中にも真剣な、現実を見据える者の厳しさを宿していた。
「――これは、私の持論だが。
 人を殺して何も思わない人間は、むしろ傭兵に向いていないと思っている」
「……え?」
 顔を上げた青年を正面から見据えて、オスカーは淡々と己が考えを言葉に紡いでゆく。
「私達傭兵団の仕事は、敵を倒しさえすればそれで良いというものじゃない。
 賊退治ひとつを取っても、依頼主やその近隣を守った上で、速やかに脅威を排除しなければならない。例え賊を全滅させても、無関係な人や村が被害を受けていては意味が無いんだよ」
 だから、と青年は言を継ぐ。
「生命の重さを理解している者でなければ、他者の身の安全を鑑みて動かねばならないこの仕事は勤まらない――私は、そう思うよ」
「……!」
 友人の示した視点は、キルロイにとっては思いも寄らぬものだった。
 傭兵として生きるならば、何よりも強くなければならない。ずっとそればかりを考えていた。
 けれど、オスカーはそれとは真逆の価値観を彼の前に提示して見せた。
 初めて触れた、自己と異なる思想。それを理解しようと相手の言葉を脳内で咀嚼するキルロイに対し、青年はさらに話を続けていく。

「同じ人間を自らの手で殺める事に、何も感じないならば。
 それは、もはや人であるとは言えないと思う」
 ふっと口元に浮かぶのは、懐古と自嘲が入り交じった笑み。
「――私も、初めて自分の手で人の命を奪った時は、体の震えが止まらなかった。
 返り血がいつまでも落ちないような気がして、汚れてもないのに何度も手を洗ったりしたな」
「……オスカーが……?」
 冷静沈着で確かな実力を持つ騎士。そんな今の彼からは、語られたような過去はとても想像できない。キルロイは意外な心持ちで友人を見やる。
 しかし考えてみれば、心根の穏やかなこの青年が、他者を害する事を自ら望もうはずも無い。鮮やかに槍を振るい、戦場を駆けながらも、その心中は複雑なものがあるに違いなかった。

「我々は野生の動物じゃない。
 命を奪い、奪われる事に恐怖するのは、人間ならば至極当然の反応だ」
 だから、とオスカーは言葉を継ぐ。
「君は何も恥じる事など無い。
 死に対する恐怖は、人間が持つ最も根源的な感情の一つだからね。それが強いということは、人として正常である証だよ」
 淡々とそう述べた後、オスカーはふっと表情を緩めた。
「……皆、誰だって、最初から完璧に出来たわけじゃない。
 経験を積んで、悩み抜いて。その結果として、こうして今ここに居る」
 優しく諭す声。決して上からではなく、傍らに立って見守るような。
 彼はこんな風に、弟達を導いてきたのだろうか。キルロイはぼんやりとそう思った。

「諦めるには、まだ早いよ。
 君が真に望むならば、夢を叶える事は出来る。自分のペースで頑張れば良い」
 それが耳障りの良い、ただ上辺だけの言葉ならば、きっとこれほど心を動かされることも無かっただろう。
 けれど、オスカーが語るそれは、心から友の身を案じその回復を願う気持ちが端々に滲んでいた。

 だからこそ……こんなにも温かく、優しい。

 視界がぼやけてきて、キルロイはとっさに顔を俯けた。
 ぐっと目を閉じ、鼻の奥に生まれた熱い塊を飲み込む。この友人の前で、これ以上みっともない姿は見せたくなかったから。

「……長く話しすぎたな。料理が冷めてしまう」
 食事を再開するよう促してから、オスカーは掛けていた椅子から立ち上がった。さりげなく席を外そうとするその心遣いに、キルロイはまた感謝した。
「食器はまた明日の朝に片付けるから、そのままにしておいてくれて構わないよ。
 食べ終えたら、またゆっくり休むと良い」
 おやすみ、と一言残して退出しようとするその背中を、キルロイが呼び止める。
「……オスカー」
「うん?」
 振り返った友人に、青年は躊躇いながら伏し目がちに問いかけた。
「……どうして、ここまでしてくれるのかな?
 僕に気を遣っても、結局は無駄になるかも知れないのに」
「だが、ならないかも知れない」
 すがるような視線を向ける友に、オスカーは間髪を入れずそう返す。そしてふっと微笑みを浮かべ、それに、と続けた。

「――君は、私の友人だからね。
 悩んでいる友の力になりたいと思う、その気持ちに理由が要るかい?」
「……!」
 瞠目するキルロイに笑いかけて、オスカーは再び踵を返した。

 静かに閉じられる扉。遠ざかる足音、気配。
 部屋に静寂が訪れてしばらくの後、寝台の上の青年は一人、己が手に視線を落とした。

「……お礼、言えなかったな」
 ぽつりと呟く。

 目を移せば、彼が自分のためにと作ってくれた食事。
 まだ一度しか口をつけていなかったことをようやく思い出し、キルロイは再び匙を手に取る。

 大分冷めてしまっているはずのスープは、それでもとても温かかった。





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