「オスカーお兄ちゃんッ! ボーレ、ボーレがっ……!!」

 その悲痛な叫びを耳にした瞬間の、友人の凍りついた横顔が記憶に焼き付いて離れない。



 デイン軍を撃破して占拠した砦の一室。
 決して広くない部屋に置かれた粗末な寝台に、容貌にまだ子供っぽさを残した青年が横たわっている。その肩口から脇腹にかけて、袈裟懸けに無残な刀傷が口を開けていた。健康的に灼けた肌を伝った血が、敷かれたばかりの清潔なシーツに点々と紅い染みを作っていく。
 寝台の傍らでは、白い法衣の青年が治癒の杖を掲げ、一心に聖句を詠唱していた。その光景を、部屋に詰めた人々が一言も発さずに見つめている。

 やがて詠唱を終えた青年が、杖を下ろして深い息をついた。向き直り、部屋に居並ぶ面々をぐるりと見渡す。
「――治癒の術はかけたよ。でも、傷が深くて、まだ完全には塞げていない。
 このまま術をかけ続ければ、塞ぐ事は出来ると思う、けど……」
「キルロイさん……ボーレは、ボーレは……だいじょうぶ、なの?」
 長兄にすがりつくようにして辛うじて立っていたヨファが、無邪気な瞳に涙を溜めながら訊ねる。問われたキルロイは、まるで自分も怪我をしたかのように苦しげな表情で答えた。
「……大丈夫だよ。治るまで、僕が傍についているから。
 傷さえ塞げれば、後は本人の体力次第だけど……ボーレは若いし、強いから、きっと大丈夫」
 その表情からは、気休めで不確実な事は言いたくないけれど、この幼子を不安にさせたくも無いという葛藤が見て取れた。
「ボーレ……」
 普段の騒がしい様子とはまるで別人のように、青白い顔で寝台に横たわる青年を見つめ、ミストがぎゅっと唇を噛んだ。その傍らに、険しい表情のアイクが無言で佇む。

 一瞬の出来事だったという。
 前線で斧を振るっていた青年を、草陰に潜んでいたデインの伏兵が襲った。反撃する間も無く、凶刃はその体躯を切り裂いた――

「おにい、ちゃん……」
 ヨファが消え入りそうな声で、傍らに立つ長兄を呼んだ。壁を背に厳しい表情で佇んでいた青年は、床に膝をついて弟と目線を合わせる。
「オスカーおにいちゃん……ボーレはだいじょうぶだよね? 帰ってくる、よね?」
 ぽろぽろと、堪え切れなくなった大粒の涙が頬を伝う。それを優しく指で拭ってやりながら、オスカーは静かに口を開く。
「大丈夫だ、ヨファ。ボーレは必ず、生きて私達の元へ戻ってくる。
 ――信じて、待とう」
「うん……。……っ、ひっ、く……」
 泣きながらしがみついてくる末弟を、青年は包み込むように抱きかかえてそっと背中を撫でる。
 室内にはただ、少年のすすり泣く声と、重苦しい空気だけが満ちていた。



 時刻は既に夜半を回り、冴え冴えとした仄白い月が天頂に浮かんでいる。

 今までずっと詰めていた部屋の扉を後ろ手に締めて、キルロイは深く長く息をついた。澱のように胸の内に蟠る不安や遣り切れなさを、一緒に吐き出してしまうかのように。
 彼自身は夜通しボーレの傍について治療をするつもりだったのだが、ミストが「自分が代わる」と頑として引かなかったのと、またアイクにも少し休んだらどうだと諭されたのもあって、その言葉に甘えることにしたのだった。
 ずっと魔力を使い通しで、疲れているのは確かなのだが、かと言ってとても眠りに就ける心境ではなかった。少し気分転換をしたら、またすぐこの部屋に戻ってくるつもりで、青年はしんと静まり返った石造りの廊下を歩き出す。

(……オスカーは、どうしてるかな)
 数刻前、泣き止まない末弟を寝かしつけるために席を外した友人。まだ、その傍についているのだろうか?
 ヨファは勿論だが、オスカー自身の事もキルロイは心配だった。自分が親代わりとなって育ててきた弟が死の危機に瀕しているのだ。いつも冷静沈着な彼とて、平気でいられるはずがない。

 ヨファを運んだ部屋を覗いてみたが、泣き疲れて眠る少年がひとり寝台に居るだけだった。起こさぬよう静かに扉を閉め、元来た廊下を再び引き返す。
 オスカーはどこへ行ったのだろう――友人の姿を探して、途中の分岐で行かなかった方の角を曲がってみる。しばらくすると、右側に張り出したバルコニー状の見張り台があるのが窓から見えた。
(いた……!)
 月明かりに浮かぶ、柔らかな緑。夜空を背にしながら、濃い闇に染まりきることのないその色彩を、キルロイの瞳はしっかりと捉えていた。
 足音を潜めつつ、見張り台の入口に立つ。可能な限り気配を消しているとはいえ、この青年が他者の接近に気づかないのは極めて珍しいことだった。それが彼の精神状態を如実に表している気がして、キルロイは息を呑んでその背中を見つめる。

 ――声をかけるべきか、かけざるべきか。
 キルロイは迷う。

 本当は、一人にさせておく方がいいのかも知れない。
 ヨファを寝かしつけた後、すぐ皆のところに戻らずここに居るということは、一人で居たい理由があったということだろう。彼のためを思うなら、このまま立ち去るべきではないのか。
 自問自答してみたが、結局、何もせず去る気にはなれなかった。例え自身のエゴだとしても、この寒空の下、彼を一人ぼっちにはしておけなかったから。

 声をかける代わりに、集中を解いて気配を消すのをやめる。それで彼は気づくだろうと踏んでいた。
 果たして、その肩がぴくりと反応し、こちらを振り向く。
「――キルロイ、か」
「うん。……邪魔、だったかな?」
 そう問えば、いや、といつも通りの顔でかぶりを振る。本音がどうあろうと、彼が拒否しないだろうことは解っていた。こんな時まで他者に気を遣わなくてもいいのに、とキルロイは痛ましい心地でその傍らに立つ。
「君も、休憩かい?」
「うん。今はミストが診てくれているよ」
「……そうか。君にも手間をかけるね」
「そんな事……」
 見張り番が立つために設えられたのであろうその場所は、大人の男性が2人並んで立つと手狭に感じる程度の広さだった。砦の周囲に広がる景色を眺めるふりをして、キルロイはそっと傍らの横顔を窺う。
 その端正な面は、一見して普段通りで、特に揺らぎは見えない。さほど親しくない者が見れば、そこから何の感情も読み取ることは出来ないだろう。
 しかしキルロイには、それが逆に彼の憔悴を表しているように思えて仕方がなかった。きつい時ほどそれを顔に出さないように努めてしまう、この友人の癖を知っているからだ。

「ヨファは、大丈夫だった?」
「ああ、ずっと泣いていたけれど、さっきようやく眠ったよ」
「そう……。
 その……オスカーは、大丈夫?」
 こんな切り出し方しか出来ない自分を恨めしく思いながら、キルロイは友人に問う。
「うん?」
 首を傾げ、オスカーが微笑みを向けてくる。
「心配してくれてありがとう。私なら、大丈夫だ」
 予想通りの答えを耳にして。
 嘘ばっかり、と心の中で呟く。

 「大丈夫」という言葉は、とても便利で耳障りが良く、それ故に時に残酷だ。
 その言葉を口にする相手が、本当は大丈夫で無い場合も多いことを、キルロイは経験上知っている。

「ここで私が参っているようでは、ヨファが余計に不安がるからね。
 ボーレにも笑われてしまう」

 大丈夫なわけがない。
 辛くないはずなどないのに。不安なのは、自分だって同じのはずなのに。
 どうして、そんなに。

「気を回させてしまって、すまないね」

 どうしてそんなに、己を殺すのか。


「……き」
「えっ? 何――」

「嘘つき……!」

 瞠目する友人の両肩を掴んで、キルロイは正面からその瞳を睨む。
「どうして……自分が辛い時まで、そうやって人に気を遣って……!
 大丈夫なわけがないじゃないか……こんな時なのに……」
「キ、キルロイ……?」
「オスカーはいつもそう。きつい時ほどそれを隠して、何でもないみたいに振る舞って。
 誰にも頼らないで、一人で耐えるのが当然だと思ってる」

 ずっと、疑問だった。
 ヨファにはオスカーがいる。不安で泣いていても、兄である彼が支えてくれる。
 では――そのオスカー自身は?
 オスカーが不安で泣きたい時には、一体誰が彼を支えてくれるのだろう?

 差し出がましいかも知れない。余計な世話かも知れない。
 あるいは自分が知らないだけで、そういった存在は既に居るのかも知れない。
 それでも友人として、彼の支えになれるならばそうしたいのだと、キルロイは彼に伝えたかった。
 願わくば、彼が無理をして辛さや不安を押し隠してしまうことのないように。

 彼が強い人なのは百も承知だ。それでも、人間なのだ。
 負の感情や弱音を、包み隠さず吐露できる場所が、人間には必要だ。教会の告解室で赦しを乞う人々を見てきたキルロイには、それがよく解っていた。

「……僕でなくても、傭兵団の誰かでもいい。
 辛い時はちゃんと辛いって言わないと、いくらオスカーだって……いつか壊れてしまうよ……」
「……」
 無言のまま向けられる視線を受け、キルロイは自身の説教じみた物言いが急に気恥ずかしくなり、友人の肩に置いていた手を放した。
「……なんか、偉そうな事言っちゃって、ごめん。
 ただ、少なくとも僕の前では、そんなに無理する必要ないんだって、それだけ伝えたかったんだ」
「――そう、か」
 しばしの沈黙の後、小さく苦笑するその顔は、図星を指されて困っているようにも見えた。

 決まり悪さに負けて立ち去ろうかと思った瞬間、キルロイの両肩に手が置かれる。ややあって、左頬を髪が擽る感触。
 オスカーが自身の左肩に顔を伏せていることに気づいたのは、その数瞬後だった。

「すまないが……少しだけ、このままで居させてくれるかい」
 耳元で囁く声。

「……うん」
 頷いて、そっと彼の両肩に手を添える。その肩がほんの僅か、震えているように感じられたのは、自身の気のせいだったろうか。
 夜の静寂の中、友人の体温を感じながらその身体を支え続ける。泣いている気配は無く、ただ微かな呼吸だけが耳についた。
 彼がどんな表情をしているのかは窺い知れないけれど、無理に笑顔を浮かべているよりはきっと良い――そうキルロイは思った。


「――すまなかった。もう大丈夫だ」
 長いとも短いとも思える時間の後、顔を上げたオスカーは既にいつも通りの穏やかな笑顔だった。
「ホントに、大丈夫?」
「やれやれ、随分と信用が無いんだね」
 苦笑混じりに肩をすくめる青年に、キルロイはつんと顎を上げ冗談めかして告げる。
「日頃の行い、じゃないかな?」
「……そう言われてしまうと、反論の余地も無いな」
 君には敵わないよ、と呟く声を耳にして、何だか不思議な気持ちになる。
 いつからだろう。完璧すぎて遥か上の存在だと思っていたこの青年に、こんな風に対等な物言いをするようになったのは。
 以前は、自分などが彼に意見などするのはおこがましいと思っていたし、自分から彼に何かを望んだ事はほとんど無かった。けれど、共に過ごす時間を重ねるうちに、こうして対等にやり取りすることを自分に許せるようになったのは、それだけ彼と親しくなったという証左なのだろうか。

「ここは冷えるな。そろそろ戻ろうか」
「うん」
 促されて、バルコニーから廊下へと戻る彼の後に続こうとした時。

 ――ありがとう。
 背中越しに小さく告げられたその言葉は、きっと空耳でも風の悪戯でもなかっただろう。


 余計な世話かも知れないと、自分にそれを言う資格があるのかと悩んだ。
 けれどその一言が、とてもとても穏やかで――優しかったから。
 彼の負担をわずかでも軽くできたのならば、思い切って行動して良かったと、心からそう思えた。

 少し前を歩く背中を見つめて、キルロイは思う。
 ――少しは、彼の役に立てただろうか。

『――君は、どことなく私と似ているからね』
『君が困っているなら、出来る限り力になりたいと思う。
 それでつい、余計な気を回してしまうんだよ』

 彼からそう告げられたあの日、自分はもっと強くならねばと思った。
 一方的に与えられるばかりではなく、友人として、彼にも何かを与えられる存在になりたいと。
 この団に来る前の自分は、物事に対して諦めていた部分があった。体が弱く、人並みの仕事も満足にこなせない自分が、他者と対等な関係を築くなどおこがましいと、心のどこかでそう思っていた。
 だが、それでは駄目なのだと……変わりたいと、そう願うようになった。そして、その為の努力を厭わなくなった。全てにおいて諦めがちだった自分がここまで出来たのは、間違いなくこの友人の存在があったからだ。

 強さとは何か?
 対等とは何か?
 団の為に、仲間の為に――そして「親友」の為に、自分に出来る事は何か?

 そんな風に悩み惑い、模索し続ける日々。
 それは決して楽な道ではなかったけれど、自身が確かに「今を生きている」という事を実感させるに足る充実感に満ちてもいるのだった。



 微かな鳥の囀りと共に、ゆっくりと窓の外が白み始める時刻。
 寝台のすぐ脇の丸椅子に腰掛けたキルロイは、治癒の杖を持った手で重い瞼をそっと擦った。その時、視界の端で何かが動いた気がして、反射的にそちらへ目をやる。
 見間違いかと思い、数回瞬きをする。その視線の先で、寝台に横たわっていた青年が呻きながら目を開いた。
「――ボーレ!」
 キルロイの上擦った声に、兄の肩にもたれてうたた寝をしていたミストが飛び起きる。

「う……あ、れ? 俺……」
 ゆっくりと、真新しい包帯の巻かれた上半身を起こすその姿を目にして、少女は縋りつかんばかりの勢いでベッドに駆け寄る。
「ばか――ボーレのバカぁっ!
 心配したんだから……すっごく心配したんだからっ……!!」
 青い瞳に大粒の涙を湛えて詰る少女と、そんな彼女にどう言葉をかければいいのか困惑する青年と。
 そんな二人の様子を遠巻きに見守っていたオスカーが、安堵を滲ませた苦笑と共に口を開いた。
「まったく、あまり皆に心配をかけるんじゃない。
 ――無事で良かった」
「……ああ。……その、すまねぇ」
 ばつの悪そうな表情を浮かべて、ボーレは小声で詫びの言葉を口にする。この腹違いの長兄をはじめ、仲間たちに多大な心配をさせた事を、彼なりに申し訳ないと感じているのだろうと、その様子から見て取れた。

 青年の回復を喜ぶ仲間たちを、心底ほっとした心地で見守りながら、キルロイはそっと席を離れて壁際に居る友人の傍らに立った。
(良かったね、オスカー)
 声には出さず、ただ思いを込めた微笑みを投げかければ、それを読んだように返される穏やかな笑顔。
「――ヨファを起こしてくるよ」
 囁くような一言を残して、青年は音も無くそっと部屋を出て行く。その背中を見送って、キルロイは疲労を凌駕する達成感と喜びとを独り噛み締めていた。




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