目を開くと、粗末な布地の天井が見えた。

「……夢、か」
 乾いた唇でぽつりと呟き、キルロイはゆっくりと身を起こす。
 夢ではあるけれど、それはかつて実際にあった、懐かしい記憶。

 身支度を整えると、日課の朝の祈りを神に捧げる。あの頃と同じ穏やかな安らぎが、今日もひとつとして欠けることなく傍に在ることを願って。
 澄み渡った意識に、先程の夢の光景が去来する。

 ――あの時。
 彼の言葉に何故あれほど動揺したのか、その理由は未だにわからない。
 彼が自分を褒めてくれたこと、それ自体はとても嬉しかったはずなのに。

 脳裏に浮かぶのは、友たる青年の穏やかな笑顔。

 友人になりたいと願い、それは叶った。
 次は親友になりたいと願い、それも叶った。
 では、それ以上を望むならば――次は何になればいいのだろう?

 それ以上考えてはいけない気がして、キルロイは慌てて思考を中断した。



 デイン=クリミア戦役から3年。
 新生クリミアがある程度の安定を得たと見た団長アイクは、爵位を返上し市井へと戻った。図らずも救国の英雄率いる団として名が売れたおかげで、グレイル傭兵団に舞い込む依頼は格段に増え、日々任務のために駆け回る日々が続いた。多忙ながら、それは穏やかで幸せな生活だった。

 もう、戦争なんてしなくてもいいのだと。
 そう思っていたのに。

 神代の昔からこのテリウスに根を張る、ベオクとラグズの確執。
 アイクの活躍により、両者はわずかながらも歩み寄りを見せたかに思えた。しかし、ここに至ってベグニオンとラグズ連合間の緊張がにわかに高まり、ついに臨界点を迎えた――ラグズ連合からベグニオンへの宣戦布告という最悪の形で。
 そして、親交のあるグレイル傭兵団の元へも、ガリアより力添えを請う使者が訪れた。ラグズ側に理ありと判断したアイクはこれを引き受け……かくして団は、またも大陸全土を巻き込む戦争へと身を投じることとなったのだった。

 ベグニオン侵攻の足掛かりとして、まず国境の城塞都市フラゲルを陥とす事に成功したラグズ連合軍は、そのまま南のムギル要塞へと進軍。夜襲を仕掛け、こちらも無事制圧した。
 勢いに乗りベグニオン北部のセリオラ領を目指すが、いかに頑強なラグズとて休み無しに駆け続けることは出来ない。国境東に広がる森林地帯を前にして、その日は一旦休息を取ることとなった。

 夕食後の野営地は、まだ皆が寝静まる時間には早く、各所から喧騒が聞こえてくる。
 これがベオクの軍であれば、あるいは近くの宿場町に繰り出す者も居たやも知れぬ。だが、この軍の大半はラグズ――ベオクと対立する者達だ。憎きベグニオンの人間が暮らす街に近寄ろうなどという酔狂な兵は居なかった。

 立ち並ぶ天幕の間を、白い法衣の青年が俯き加減に歩く。手にした杖の先に嵌め込まれた宝玉が、松明の灯りを反射して煌めいた。
 薬や包帯の収められた天幕へと向かっていた彼は、その途中で見慣れた姿を見つけて足を止める。
(……オスカー?)
 声をかける前に、相手の方も彼に気づいたようだった。歩み寄り、その長身を見上げる。
「オスカー、食事は終わったの?」
「ああ」
 軽く首肯する彼に、青年――キルロイは微かな違和感を覚えた。
 それは、今が初めてではない。今日の友人は、どこか様子が違っていた。その言動は至っていつも通りなのだが、その瞳は何か別の所を見ているようにキルロイには思えるのだ。
 そんな疑念が顔に出たのか、オスカーは決まり悪げに視線を逸らした。その反応も、いつもの彼らしいものではなく、キルロイの懸念をより確信へと近づける。
 いつから? 彼は思い返す。
 確か、ムギル要塞での夜戦以降だ。オスカーの様子がおかしくなったのは。
 あの戦いの最中、何かあったのだろうか。彼は触れられたくないのかも知れないが、友人としてどうしても放っておく気にはなれなかった。躊躇いながらキルロイが口を開きかけた時。
「――キルロイ。この後、時間はあるかい」
「え? あ、うん、大丈夫だけど……」
 先に相手から問われ、虚を突かれながらも答えた。そうか、と呟く青年の表情は、揺らめく松明の光が落とす陰でよく見えない。
「良ければ少し、付き合ってほしいんだが」



 半刻後。
 野営地から近い場所にある小さな宿場町は、仕事帰りの労働者達で活気付いていた。戦時下の敵国とはいえ、ラグズ連合側は軍人でない一般のベオクにはなるべく手を出さぬよう計らい、攻略すべき要所以外は避けて進軍するルートを取っている。その為、戦場から離れた街では至って普段通りの生活が営まれているようだった。
 通りを行き交う人々に紛れ、二人の青年は歩みを進める。先を行く友人の背中を、キルロイは疑問と戸惑いの眼差しで追った。
 付き合ってほしいと言われるままについてきたが、まさか野営地を離れて街まで来るとは思っていなかった。真面目で規律正しいこの青年が、敵地でこのような行動に出るとは――やはり只事ではないと、キルロイは半ば確信した。
 そしてそれは、オスカーがある建物の扉に手をかけた時、より強固なものへと変わる。
 葡萄の葉と蔓の意匠が彫られた看板……すなわち、酒場。
 驚愕の表情で見つめる青年に、扉を開けたオスカーが手招きする。敵国の兵だと悟られぬよう、いつもの鎧は身につけず、平服に外套を羽織った姿。それが、今のこの状況の異様さをより強く感じさせた。

 この友人が酒を好まない質だということは知っていた。仲間の付き合いで軽く口にすることはあっても、自分から飲もうとはしない。当然、盛り場にも進んで近寄ることはなかったはずだ。
 なのに、これは一体どういう風の吹き回しだろう? キルロイは首を捻る。
 目抜き通りから少し奥へ入った所に佇む、小さな酒場。表通りに面した店ほど騒々しくはないものの、店内は酒と賭事に興じる酔客の喧騒に満ちていた。
 テーブルの間をすり抜け、着いたのはカウンターの一番奥の席。
 椅子を引いてくれる気遣いも、二人分の注文を済ませる手際の良さも、全部いつも通り……なのに。
 所在無げに卓の木目を見つめていたキルロイの視界に、すっと差し出されるグラス。
「あ……僕は」
 シードルの瓶を手にした青年に遠慮の意を伝え――ようとして、キルロイは言葉を呑み込んだ。
 慣れない場所、明らかに様子の違う友人。ここで自分だけ酒を口にしないでいるのは、さすがに憚られる気がして、おずおずとグラスを取る。注がれる液体は、綺麗な黄金色をしていた。
 己がグラスを相手のそれに軽く打ちつけた後、オスカーは酒を口に運んだ。その様子を横目で見ながら、キルロイも彼に倣う。比較的度数の低い酒なのか、飲みつけない身でもするりと喉へ通すことができた。
 そのまま、沈黙のうちに並んでグラスを傾ける。こちらから口火を切った方がいいのだろうかと、キルロイが悩み始めた時。
「……すまないな、こんな場所まで連れてきて」
 ぽつりと、オスカーが言った。手にしたグラスの中で揺れる酒を見つめるその横顔からは、どう切り出したものかと迷う色が見て取れた。
「ううん。それはいいんだけど……
 その、何かあった?」
 思い切って問いかける。彼も、話し始めるきっかけが欲しいのではないか。
 その問いにオスカーは――これもまた珍しいことだが――しばらく答えなかった。一口、酒を含んで。

「……ヨファの、母親に会った」
「えっ?」
 脈絡なく発せられた一言。常に理路整然と話す青年とは思えぬその唐突さに、キルロイは反射的に訊き返していた。
「昨夜、ムギル要塞に夜襲をかけた際、私は生活施設のある区画へ回っていた。
 そこで偶然、見知った顔に出会った」
 一度言葉を切り、深い溜息と共にもう一度、繰り返す。
「ヨファの、生みの母親に」
「……」
 返すべき言葉が見当たらず、キルロイはただその横顔を見つめる。端正な面には、およそ一言では形容しきれない複雑な感情が滲んでいた。
「――私達兄弟は、全員母親が違う。彼女は父の三番目の妻だった。
 私が騎士団に入った後、彼女は別の男性と家を出ていった。……病で伏せる夫と、十にも満たない我が子を、置き去りにして」
 本人達からはっきりと聞いたことはなかったが、彼らの複雑な家庭事情については、薄々聞き及んでいた。しかし、いざ明確に当事者の口から語られると、キルロイはその重さにただ言葉を失うしかなかった。
「……昔の話だ。けれど、私はまだ……割り切れていない。
 実の母に見捨てられ、直後に父を亡くしたヨファがどれほど傷ついたか……それを思えば、許す気にはなれない」
 一見静かな声の奥に、昏く滾る熱のようなものをキルロイは感じ取る。彼が知る限り、オスカーがこれほどの怒りと嫌悪を他者に向けたことは一度も無かった。目にしたことのない彼の姿に、見てはいけないものを見たような心地で、キルロイは手元のグラスに視線を落とした。
「だが、それはあくまで私個人の感情に過ぎない。
 経緯がどうあろうと、彼女がヨファの生みの母である事実は変わらない。……子供の傍には、親が居た方が良いに決まっている」
「オスカー……」
 彼の言わんとしていることを、キルロイはおぼろげながら察する。
「私も、ボーレも……両親の代わりにはなれない。私達では与えてやれないものがあるのも事実だ。
 母親のもとへ行けば……戦場に出ることも、武器を握ることも無く、平和に暮らせるかも知れない」
 かける言葉を見つけられない。代わりに酒瓶を取り、残り少なくなった友人のグラスに中身を注ぎ足した。ありがとう、と小さく笑って、青年は再び酒に口をつける。
「……お前の母に会ったと、教えてやるべきなんだろう。
 その上で、ヨファ自身がどうしたいかを問い、本人が決めたならば、それを尊重すべきだと」
「だが、本当にそれで良いのだろうか?
 彼女のもとへ送り出すことになったとして……また、同じことの繰り返しになりはしないか。そうしてまた、ヨファが傷つくのでは――つい、そんな危惧を抱いてしまうんだ」
 そうなるくらいならば、いっそ。
 見なかった振りをして、私一人の胸に収めてしまえば。
 両手で包んだグラスを額に当て、青年は目を閉じる。
「私は……どうすべきなんだろうな……」

 陽気で退廃的な喧騒。酒場全体に満ちるそれが、遠く感じられる。彼らの座る席の周囲だけが、まるで切り離されたかのように静かだった。
 額からグラスを離し、オスカーが溜息を吐く。その微かな呼吸も、背後で渦巻く享楽の声に掻き消される。片隅で細々と吐き出される苦悩になど、誰一人として注意を払うことなく。
 キルロイは、彼がわざわざここを述懐の場に選んだ理由がわかった気がした。

「僕は……」
 息を吸い込み、音へと変える。
「どうすべきかなんて、君に説けるような言葉は持ってないけど……。
 少なくとも、今までオスカー達兄弟を見てきて、ヨファが幸せそうじゃないなんて感じたことは一度も無かったよ」
 傭兵団に入って四年と少し。どの記憶を取り上げてみても、そこには羨ましいほどに仲の良い兄弟の姿がある。
「オスカーの言う事もわかるよ。
 でも……君が今まで、弟達を立派に育ててきたんだっていう、その事実は素直に誇ってほしいな」
 だって、とキルロイは続ける。
「実の母親ですら出来なかったことを、君は成し遂げたんだから」
 王宮騎士の道を諦めてまで、腹違いの弟達を守り育ててきた青年。彼の献身が無ければ、二人が今のように健やかな成長を遂げることは叶わなかっただろう。その行いがどれほど立派なものか、誰よりも彼自身に自覚してもらいたくて、キルロイは言葉を重ねた。
「僕は知ってるよ。オスカーがどれほどボーレとヨファを大事に想っていて、二人のために心を砕いているか。
 ……だからこそ、迷ってる。真実を伝えることで、ヨファが傷つくんじゃないか、って」
「……それはどうかな。
 ただ、ヨファを他所へやりたくないという、私のエゴかも知れないよ?」
 どこか戯けたように笑って、オスカーは肩をすくめる。しかし仕草とは裏腹に、その瞳が笑っていないことに、キルロイは気づいていた。
「僕も、両親と離れることになったけど、この団に来て良かったって思ってるよ。
 アイクやティアマトさんをはじめ、みんな良くしてくれるし、それに――」
 オスカーに会えたしね。その言葉を、キルロイは寸前で飲み込む。何故か、それを口にしてはいけないという気がして。
 不可解な迷いは一旦奥底に押し込め、急ぎ別の言葉を探す。
「……だから、実の親と一緒に居る方が幸せとも限らないと思う」
 何が幸せか。それは他の誰でもなく、その人自身が決めること。キルロイはそう思う。
 身体が弱いから傭兵には向いていない――そんな事は百も承知。それでも自分はこの傭兵団に加わることを選び、そして今、幸福だと感じている。それが、何よりの答えではないか。
「全部、オスカーが背追い込む必要は無いよ。
 ヨファも、君のおかげでもう立派に成長した。自分の人生を、自分で考えて歩いていけると思う」
 だから、と傍らの友人へ微笑みかける。
「君が育てた弟のこと、もっと信じてあげてもいいんじゃないかな?」
 背後で歓声が上がる。賭け事で酔客が盛り上がっているのだろう。もっと騒いでくれればいいと、キルロイは願った。その方が、不意に訪れる沈黙を誤魔化せるから。

「信じる――か」
 黙って話を聞いていたオスカーが、ぽつりと呟く。
「そう、かも知れないな」
 グラスを揺らしながら、思考に沈む横顔。やがて、何かを思い切るように残りの酒を干し、傍らの友人に向き直った。
「ありがとう。話を聞いてくれたおかげで、少し考えがまとまった気がするよ」
「それなら、良かった」
 キルロイは微笑む。自身の考えを上手く伝えられたか自信が無かったけれど、友人の表情が少し明るくなった、それだけで言葉を尽くした甲斐があったと思った。
「こんな場所まで付き合わせて、すまなかったな」
 酒瓶が空になったのを潮に、オスカーが席を立つ。まず気づかれはしないだろうが、ここは敵国の領地で、二人は敵軍の兵なのだ。あまり長居すべきで無いことは、お互いに解っていた。
「ううん。誘ってくれて嬉しかったよ」
 こういう所にはあまり縁が無かったし、とキルロイ。それならと、オスカーが提案する。
「今度は、もう少し落ち着いて飲める時に来ようじゃないか」
「ふふ、そうだね」
 店の出入口をくぐり、二人の青年が笑い合う。背後でゆっくりと閉じた扉が、狂騒に満ちた空間と彼らを隔てた。



 折からの雨でぬかるむ地面を、ブーツに包まれた足が慎重に踏み渡る。
 白いローブに泥が跳ねないよう進むのは、なかなかに気を遣う作業だった。立ち止まって一息ついたキルロイは、そこで前方に知った顔を見つけた。
 色合いは微妙に異なれど、血の繋がりを示す緑の髪を持つ二人の青年。
 仲の良い兄弟が会話を交わしている、そんな普段通りの光景であったならば、キルロイも特に気には留めなかったであろう。
 しかし、遠くから窺う彼の目にも明らかなほど、二人の表情は険しかった。彼らが揃って視線を向ける先には――女性が一人。
 無意識に、キルロイは傍の天幕の陰に身を潜める。ただならぬ雰囲気であることは察せられた。自分が取るべき行動は、すぐにこの場を立ち去り見なかったふりをすることだと――理性はすぐに正解を弾き出した。
 けれど、キルロイはその正解をあえて無視した。覗き見る後ろめたさを殺してまで残ろうとしたのは、ひとえに親友を案じる心からだ。
(オスカーが、あんな顔するなんて……)
 只事じゃない。キルロイは天幕の陰から顔を出し、三者の様子を窺う。

 何かを請うような表情の女性に、ボーレが食ってかかっている。そして、弟の少し後ろに立ち、その様子を押し殺したような無表情で見守る長兄。
 声の届かない距離。話している内容は聞こえない。だが、次兄の怒りに染まった表情を見れば、その剣幕が尋常でないことは窺い知れる。そして、身内のそんな振る舞いをまず止めに入るであろうオスカーが、黙って見ているだけなのも異様だった。
(あの女の人は、一体……)
 キルロイは戸惑う。見知らぬ他人に対し、あのような態度を取る二人ではない。おそらくは知己なのだろう――それも、彼らにとって歓迎されない部類の。
 相手の剣幕に怯えながらも、必死に何かを言いつのる女性に、ボーレは帰れと言うように右手を振った。握り締めた左の拳が震えている。
 その横顔に、怒りだけではない複雑な感情をキルロイは見た気がした。哀しみ、悔しさ、憐れみ……そしてどこか遣る瀬ない、そんな色。それは程度の差こそあれ、傍らに佇む長兄も同じで。

 その時、身動ぎもせず事態を見ていた青年の唇が動いた。
 ボーレが弾かれたように振り向く。愕然とした表情。一方、女性の顔には喜色が広がる。だが、オスカーが無表情を崩さず何事かを告げると、その笑みは一瞬にして消えた。
 さらにいくつか言葉を重ねた後、青年は踵を返し、反対方向へと歩き出す。その背中を、信頼と不安が入り交じった表情のボーレが見送る。
 残った二人と、その場を離れた青年と。両者を交互に見て、キルロイは躊躇いながらもそっとオスカーの後を追った。


 キルロイが再び友人の姿を見つけた時、彼は末の弟と話をしていた。
 何事かを伝える長兄の言葉を、ヨファは黙って聞いている。やがて、幼さの残る顔に大人びた笑みを湛え、少年はゆっくりとかぶりを振ってみせた。
 キルロイの位置からは、オスカーの背中しか見えず、その表情は窺い知れない。けれど、その握り締められた拳には、言葉に出来ぬ万感の思いがこもっているように思えた。
 兄弟のやり取りを離れて見守るキルロイの脳裏に、昨夜の出来事がよみがえる。
『……ヨファの、母親に会った』
 オスカーの述懐。遠く視線の先にある少年の顔が、先程見た女性のそれと重なった。
 もしかして、あの女性は――。
 ぐっと握った右手を胸元に当て、キルロイは友人の横顔を見つめる。
 彼らの力になりたい思いは勿論ある。けれど、他人が踏み込める領域でない事は解っていた。これはオスカーとボーレとヨファ、彼ら『家族』の問題だ。
 今の自分に出来ることは、ただ皆にとって後悔の無い結果となるよう祈るだけ。

 結論が出た後、もし友が自分を頼ってくれるのならば。
 その時は、またグラスを傾けながら、彼が満足するまで話を聞こう――キルロイはそう思った。



「オスカー! あの子は……!?」
 先程の場所まで戻ったオスカーに、女性が待ちかねたように問うた。一瞬逡巡した後、青年は口を開く。
「……。
 ヨファは……会いたくないと言っていました」
 彼女の表情が絶望に染まるのを、青年は複雑な心境で見つめていた。実の子に拒絶された女への憐憫と、本当にこれで良かったのかという迷い。その一方で、溜飲が下がったような、後ろ暗い歓びがあるのも否定できなかった。
「そ、んな……どうして……」
 崩折れんばかりにがっくりと肩を落とす女に、オスカーはひっそりと告げる。
「――今更、それを問いますか」
「……」
 重い沈黙。
 やがて顔を上げた女の面には、後悔と自嘲の笑みが貼り付いていた。
「……そう、ね。当然よね。
 先にあの子を捨てたのは、私なんだもの」
 オスカーは何か言おうとして――口を噤み、視線を逸らした。結論は示され、彼女はそれを受け入れた。これ以上、何を言うことがあろう?
「……出口まで、お送りします」
 息子に拒まれた彼女が、ここに居る理由はもはや無い。暗に退去を促す青年に抵抗するでもなく、彼女は微かに頷いた。

 土を踏む微かな音でさえ、大きく感じられるほどの沈黙。
「……もう母ではない私に、こんな事を訊く資格はないのでしょうけど」
 さほど長くない道中の終わり際、先に立って歩く青年の背中に、ぽつりと微かな声が届く。
「ひとつだけ、聞かせて頂戴。
 あの子は――ヨファは、どんな子に育った?」
 オスカーは振り返らず、ただ空を見上げた。どこまでも高く澄み渡る、雨上がりの蒼穹。過去に思いを馳せながら、彼は静かに口を開く。
「――立派に、育ちました。
 『家族』思いで、優しく、強い大人に」
「……そう」
 それが聞けただけで、十分だと。笑う気配がした。

 街道が見える辺りで足を止め、青年はただ無言のまま彼女を促す。従って数歩進み出たところで、女が彼を振り返った。
「ありがとう、オスカー。
 あの子を生かしてくれて」
「私はただ、家族と共に暮らしたかった。それだけです。
 貴女に感謝される謂われはありません」
「そう、よね」
 全てを諦め、悟った者の微笑み。オスカーはしばらく彼女を見つめていたが、おもむろに口を開く。
「……時が経てば」
「え?」
「実の母子という繋がりは、そう簡単に消えはしない。
 あの子がもっと年を重ねたなら、あるいは……会える事もあるかも知れません」
 何故、希望を持たせるような事を告げたのか。オスカー自身にも解らなかった。
 父と幼子を見捨てて逃げた、義理の母。弟達の、そして自身の人生を狂わせた、憎い相手のはずだった。けれど、それでも。
「――ありがとう」
 しばし呆然としていた女が、ゆっくりと微笑んだ。その頬を一筋、涙が伝う。
「どうか、あの子を……お願い」
 最後に深々と頭を下げ、彼女は去って行った。



 送り出した背中が街道の方角へ消えるのを見届けてから、オスカーは踵を返した。
 しばらく歩いた後――つと足を止め、おもむろに傍の天幕の裏を覗き込む。
「ひゃっ!?」
 妙な声を上げて飛び下がる人影に、オスカーは微笑みかけた。
「いつから、ここに?」
「ごっ、ごめん! その、覗き見するつもりじゃ……」
 あたふたと取り繕おうとする白い法衣の青年を、解っているよと優しく制す。ただ好奇心だけで他者の跡をつける彼ではないと、オスカーは知っていた。
「心配してくれたんだろう?」
 昨夜彼に相談した事が、こんなにも早く現実になるとは。オスカーは苦笑して、キルロイを見つめた。
「ありがとう、キルロイ」
「えっ?」
「君の言った通りだったよ。私が思うよりずっと……ヨファは大人になっていたようだ」
 穏やかに微笑む友を前に、落ち着きを取り戻したキルロイが首を傾げる。
「その様子だと、良い方向に解決した……のかな?」
「おかげさまでね」
 相談を持ちかけた以上は、事の顛末についてきちんと報告するのが筋だとオスカーは思っていたし、何より彼に聞いて欲しかった。現在の状況が状況だけに、すぐにとはいかないだろうけれども。
「これで私も、少し肩の荷が降りたかな」
 軽く伸びをして微笑むオスカーに、キルロイが目を丸くする。
「何だい?」
「いや……オスカーがそんな風に言うの、珍しいなと思って」
「……そうかな?」
 どうも最近、他者から変化を指摘されることが増えた気がするな、と青年はひとり苦笑した。そして、それはもしかすると、と悪戯っぽく告げる。
「君のおかげ、かも知れないな」
「……ええっ!?
 あの、それって、どういう意味……」
 あたふたと問うキルロイには答えず、意味深な笑みをひとつ残してオスカーが歩き出す。紅潮した顔に大量の疑問符を浮かべたまま、法衣の青年は慌ててその後を追った。




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