実り豊かなクリミアの大地に、季節は移ろう。
 気づけば、青年がこの傭兵団にやって来た日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。

 人の死を目の当たりにする事には、今でも慣れない。
 傷を負って戻ってくる仲間たちの姿にも、心が痛む。
 けれどそれでも、ここでの暮らしは概ね平和だった。これからもずっと、そんな日々が続いていくものと思っていた。

 その矢先――
 運命の舵は、予期せぬ方へと回る。


 デイン軍の突然の侵攻により、クリミア王都メリオルは陥落。
 状況を把握するべく偵察に出た街道で、アイク率いる傭兵団が発見したのは……クリミア現王の娘、エリンシア王女その人だった。
 彼女を保護しクリミアを取り戻す為、ガリアを経てベグニオンへ。団長グレイルを失い、幾多の困難に見舞われて――気づけばいつの間にか、遠くデインの地まで来ていた。

 生まれて初めて目にした、一面の銀世界。
 灰色の空と白の稜線を見つめるキルロイの足下で、さくりと雪が鳴った。

 もしもあの時――自分が、茂みの向こうに倒れていた彼女を見つけなければ。
 グレイル団長が命を落とす事も無く、アイクが過酷な運命に巻き込まれる事も無かっただろうか?
 一瞬、そんな風に考えて、キルロイはすぐにかぶりを振った。
 現実が覆らない以上、仮定してみても詮無い事。それに、自分達が見つけていなければ、今頃彼女の命は無かったかも知れないのだ。人ひとりを救えたという今の結果を、否定したくは無かった。

 兵力で劣るクリミア解放軍にとって、強大な軍事力を誇るデイン軍との戦いは苛酷を極めた。
 戦いが起こるたびに、何百もの人々が傷つき、死んでいく。自分の目の届かない所でも、多くの命が失われているだろう。兵士達だけではない、戦場となった土地に暮らす住民達だって、平穏無事ではいられまい。
 それらを思う都度、心が悲鳴を上げる。
 出来ることなら、戦争などしたくない。人が傷つき血を流す様を見たくはない。
 デインの占領下にあるクリミアは大丈夫なのか。故郷に残してきた両親の事も気にかかる。

 それでも――キルロイはこの傭兵団と共に在る事を選んだ。
 病気がちな自分では、足手まといになるかも知れない。そんな不安をおして、青年は戦場に立ち続ける。傷つきながらも懸命に前へ進もうとする仲間たちを、見捨てる事など彼には出来なかったから。




 この日もまた、デイン軍との戦端が開かれる。
 数で勝るデイン側は、二方向から挟み込むようにクリミア=ベグニオン連合軍へ攻撃を仕掛けてきた。解放軍側も、同じく隊を分けてこれを迎え撃つ。たちまち馬の嘶きと鬨の声、鋼のぶつかり合う音が辺りを満たした。

 治療役として別働隊の方へ行くように指示されたキルロイは、前衛よりやや後方に下がった位置で状況を見守っていた。
 右手には持ち慣れた杖。左手には、使い慣れない魔道書。
 修練を積んで得たのは、より高度な治癒の術ばかりではない。自分の身を守る力――それは言い換えれば、自ら人を殺める事の出来る力。
 なるべくなら振るいたくはない。だが戦場に立つ以上、そんな事は言っていられない。ひとつ間違えれば仲間の、自分の命が無くなるのだから。

 傷を負った者が居れば、すぐに癒してあげなければ。
 ぎゅっと杖を握り締めながら、離れた位置で敵と交戦している前衛の様子に気を配る。
 その時、不意に戦列の一部が崩れ、防衛ラインを突破した敵兵が後衛へと向かってきた。中衛に居た軽装歩兵達がそれを迎撃するが、全てを抑えきるには人数が足りない。
 キルロイは後ずさりながら、手にしていた魔道書を開いた。聖句を唱えて宙に印を切ると、その手元から淡い光が生まれる。それらが寄り集まって出来た眩い光の帯は、こちらに向かって来ようとしていたデイン兵を灼き、その足を止めた。
 けれど、致命傷には至らない。武器を構え直す相手に、青ざめた唇を噛み再度魔法を発動させようとする。

 刹那、彼が詠唱を始めたのとほぼ同じタイミングで、前線の方から駆けてきた騎士がデイン兵達の行く手を塞ぐように立ちはだかった。そのまま流れるような速さで槍を振るい、後衛を狙おうとしていた敵数名を素早く仕留める。
 緑の鎧を纏うその後ろ姿は、キルロイのよく見知った者のそれで。
「――キルロイ、無事かい?」
 普段は柔和な笑みを刻むその面にも、今は厳しい表情が浮かんでいる。馬上の友人を見上げ、キルロイは頷いた。
「ありがとう。……オスカーも、怪我は無い?」
「ああ、私は大丈夫だ」
 その答えに、ひとまずは安堵する。
 最前面で戦う彼と、後衛で待機する自分。それぞれの役割があるとは言え、自分だけが安全な位置にいるようで、キルロイは歯がゆい思いを禁じ得なかった。

「予想以上に敵の数が多く、戦線が後退している。後衛の部隊はもう少し後ろへ――」
 オスカーの言葉を遮るように、前線の方から怒声が響く。反射的にそちらを見た二人の目に、再度戦列を割って向かってくる敵兵の姿が映った。
「下がって!」
 鋭く告げ、手綱を鳴らす騎士。巧みに馬を操り、後詰の歩兵達を襲おうとする敵の進路上をキープしながら、手にした槍で応戦する。
 その姿を気遣わしげに追うキルロイの目が、ふとある位置で止まった。視線の先には、呪文を詠唱している魔道士。収束した魔力が向けられる先は――敵の騎馬兵と槍で打ち合う騎士の背中。
「オスカー……!」
 キルロイは声を上げようとしたが、とっさにそれを飲み込む。敵と鍔迫り合いをしているこの状況では、一瞬でも相手から注意を逸らす事は命取りになりかねない。かと言ってこのまま黙っていたら、彼は背後からまともに魔法を浴びてしまう。
 どうすれば――青年は悩む。

 魔力によって宙に生み出された炎は、やがて人の血肉を灼く凶器としての形を為す。
 術式の完成を察知した瞬間、キルロイは反射的に駆け出していた。

 魔道士の意志に従い、緋色の軌跡を描いて飛ぶ炎。それは真っ直ぐ、馬上の騎士の背中に吸い込まれる――と見えた瞬間、その前に白い影が割り込んだ。
「――キルロイ!?」
 相手を打ち倒した騎士が振り返るのと、彼の背をかばうように立った法衣の青年が魔道書を前にかざすのと、飛来した炎の塊が彼を襲ったのは、ほぼ同時だった。
 無音の衝撃。
 まるで見えない壁にぶつかったかのように炎が裂け、吹き散らされていく。炎に飲み込まれたかに見えた青年の白い法衣には、焦げ跡ひとつ付いてはいなかった。
 それを確認するや、馬上の騎士は鞍の後ろから手槍を引き抜く。間髪入れずに投げられたそれは、炎魔法を放った魔道士の胸を過たず貫いた。次弾の詠唱を始める暇すら与えられず、魔道士はその場に崩折れる。

「キルロイ! 怪我は!?」
 攻撃の届く距離に敵影が無いことを確かめてから、オスカーは友人に問うた。
「僕なら大丈夫。間に合ってよかった……」
 安堵の笑顔を見せる青年に、オスカーは口を突いて出そうになった言葉をぐっと呑み込む。今は、この戦局を乗り切るのが最優先だ。
「……とにかく、一旦下がって。前線が後退してきているから、距離を保って近づき過ぎないよう注意を」
「わかった。気をつけてね」
 素直に頷いて後方へと退いていく友人を横目で見送り、オスカーはこっそりと溜息をついた。




「――どうして、あんな無茶な事をしたんだ?」

 夕刻。

 戦闘は、辛くも連合軍の勝利に終わった。
 消耗の激しさを考慮し、部隊は早めに野営の準備を始めていた。負傷者の手当に奔走していたキルロイは、ようやく一段落して医療用の天幕を出たところだった。
 疲れているところすまないが、と声をかけてきた友人に連れられ、人通りの少ない天幕の陰に立つ。そして切り出されたのは、予想していた通りの台詞だった。

 口調は普段と変わらず穏やかなもの。しかし、その柳眉が幾分険しく寄っているのに気づいて、キルロイは心なしか首を縮める。
 呼び止められた時の彼の顔を見て、おおよそ予想はついていた。しかし覚悟はしていても、滅多に怒らない友人が明らかにそうと解る雰囲気を醸し出しているのを前にすると、平静でいるのは難しかった。
「あ、あの……ごめん」
「どうして謝るんだ? 私は理由を訊いているだけだよ」
「え、ええっとその……」
 これではまるで教師と生徒だ。昔、教会で師事していた教父に叱られた時のことを思い出しながら、キルロイは内心冷や汗をかく。
「あの、怒らないで聞いてほしいんだけど……」
「理由が無いと言うのなら怒るよ」
「うう……」
 さらに身を縮めるキルロイに、オスカーはふうっと息をつき、微かに表情を和らげた。
「――私だって、君が何の考えもなしにあんな行動に出たとは思っていない。
 だからこそ、聞きたいんだ。君の考えをね」
「……」
 上目遣いに友人の顔を窺ってから、キルロイはおずおずと口を開く。
 曰く、あの状況で危険を知らせても、逆に注意を散漫にさせてしまう恐れがあったこと。魔術の心得がある者は、攻撃魔法に対する耐性が高いこと。彼我の能力差によっては、自身の魔力で攻撃魔法を相殺できる可能性があったこと。
「……なるほど。
 つまり、無防備に背中を晒していた私に魔法が直撃するより、君が割って入って相殺した方が被害が少ないと判断した、と?」
「う、うん……」
 的確にポイントを掴んだ要約に、キルロイは頷く。
「私は魔術については全くの素人だけれど……君から見て、敵の魔道士の攻撃を相殺できるという確信があったのかい?」
 キルロイの持つ魔力素養が極めて高いポテンシャルにあることは、オスカーも聞き及んでいた。しかし、彼が司祭の位を取得してまだ幾ばくも経っていない。まして、今まで敵と戦う術を持たなかった彼だ。果たしてその身に秘めた力をどの程度使いこなせているのか、オスカーにも判断がつきかねる部分だった。
「うん……説明が難しいけど、術式の複雑さとか、相手の放出する魔力とか、そういうのを見ると何となくこれくらいかなって、感じることはできるんだ」
 おそらく彼自身も、理論ではなく感覚で掴んでいるものなのだろう。たどたどしい説明を聞きながら、これが才能ということか、とオスカーは思った。
「でも、完全に相殺できるって確信までは無かったよ。ただ、いくらかでも相殺できれば被害は少なくなるし、もし駄目だったとしても、僕が受けた方が傷は浅くて済むと思ったから」
「……なるほど。君の考えはわかったよ」
 だが、とオスカーは再び厳しい色を目元に刷く。
「今回は運良く無傷で済んだから良かったけれど……もしも君の見立てより相手の力量が上であれば、君が深手を負っていたかも知れない。私は、あまり感心できないな」
「うん。……きっと、オスカーはそう言うだろうなって思ってた」
 苦笑めいた表情でそう言った後、キルロイは徐ろに頤を持ち上げ、友人の瞳を正面から見つめる。先程までの自信なさげな様子とはうって変わった、強い意志を込めたその視線に、オスカーは一瞬言葉を失わずにはいられなかった。
「でも、もしも僕が何も行動しなかったら、オスカーが深手を負っていたかも知れない。
 目の前で友人が危険に晒されているのに……何もしないなんて、僕には出来ないよ」
「……その気持ちは解る。だが……」
「それに」
 友人の言葉を珍しく遮って、キルロイはややむくれたような表情で言い募る。
「オスカーは、僕と自分とであれば、自身の方が傷を負うのが当然だと思ってる。
 戦場に立つ以上、被害を受ける可能性は誰しも平等で、責任は誰にも無いのに」
「それは……私と君では、役割が違うからだよ。
 君は後衛で、私は前衛だ。装備も異なるし――」
「後衛だから守られて当然、前衛だから傷を負って当然なんて、僕は思わない。
 魔法での攻撃なら、僕が受けた方がオスカーが受けるよりも被害を減らせる。だから、行動した」
 いつも控え目なこの青年には極めて珍しく、ぐいと顎を上げ、真っ向から相手に対峙する。
「何か、間違ってるかな?」
「……」
 沈黙するオスカーに、キルロイは吊り上がり気味だった眉を下げた。
「――オスカーが心配するのも解るよ。
 僕はまだ司祭になったばかりで、戦場に出た経験も浅い。君からすれば、本当に危なっかしく見えるんだろうと思う」
 それでも、とキルロイは魔道書を抱える手に力を込める。
「僕だって、戦える。
 僕だって、この傭兵団の一員なんだから」
 鳶色の双眸に、確かな決意を宿して。
 一年前、戦場に立つ事にただ怯え震えていただけの青年は、もうそこには居なかった。
「だから。……もう少しだけ、信じてくれないかな?
 僕も、頑張るから。いつかは君に頼ってもらえるように――強くなるから」

「……」
 ずっと黙ったまま友人の訴えを聞いていたオスカーは、やがてひとつ息を吐いて緑の髪を掻き上げた。
「――どうやら、私は君のことを見くびりすぎていたようだ」
「え?」
 何を言われたのかわからないといった表情で見上げてくる鳶色の瞳に、青年は敬意と自嘲と申し訳無さとが入り混じった苦笑で応える。
「君は弱くなどない、ただ役割が違うだけだと口では言いながら、その実、君が戦場に立つ事に過剰な懸念を寄せていた。
 心のどこかに、君は守られるべき側だという意識があったんだろうな。それは即ち、君を対等の存在として見ていなかったということだ」
 ふう、と溜息をつき、彼は頭を下げる。
「これでは、君が気を悪くするのも無理はない。すまなかった」
「あっ、いや、別に怒ってるわけじゃ……」
 慌てて口添えするも、オスカーは忸怩たる表情を崩さなかった。
「魔法に関しては、君の方がずっと知識を持っている。
 君が考えて判断したのだから、素人の私が余計な口を挟むことではなかったね」
 その視線が見つめる先は、キルロイの持つ光の魔道書。
 戦いを何より厭うているはずの彼が自ら望んで身につけた、敵と戦うための手段。

「それに……何よりも先に言わなければならない事を、私は君に言っていない」
 そう告げて、オスカーは居住まいを正し、キルロイの顔を正面から見据える。
「――助けてくれてありがとう。
 君のおかげで、私は傷を負わずに済んだ。感謝しているよ」
「……うん。どういたしまして」
 少しはこの友人の役に立てただろうかと、キルロイは少し面映ゆげに微笑む。

「本来なら、真っ先に礼を言わねばならなかったのにね。我ながら失礼な話だよ」
「ううん、僕が新米で頼りないのは事実だから、オスカーが不安に思うのも無理はないよ」
 キルロイの言葉に、傍らの青年はいや、とかぶりを振る。
「君は、強くなった。それこそ一年前とは比べ物にならないほどに、ね」
「そう、かなあ……?」
「実力の話だけじゃない。戦場に立つ覚悟や、現実を冷静に見る判断力といった精神面においてもだ。
 ずっと見てきた私が保証するよ」
「そっかぁ……うん。そうなら、いいな」
 戦争の現場を直視する辛さに耐えながら、それでもここまでやってこれたのは、この団に居たいという気持ちと――そして、この友人に認められたいという思いがあったからだった。
 入団直後からずっと手を差し伸べ、励まし続けてくれた彼に、いつか恩返しができるように、と。
 それだけに、今こうしてオスカー本人の口から成長を認める発言を聞けたのは、キルロイにとってとても嬉しい事だった。自然に綻んでくる口元を、さりげなく魔道書を持ち上げて隠す。
「私も、認識を改めなければならないな」
 頑張らないと君に追い抜かれてしまうね、とオスカーが笑う。その笑顔を見て、もうずっと彼とチェスを指していない事をふとキルロイは思い出した。つい数ヶ月前のはずなのに、砦で平和に過ごしていた日々がひどく懐かしかった。

(次の目標は……チェスでオスカーから一本取ること、かな)
 そんな未来を思うと、戦いの日々で擦り減った心が、ほんのり温かくなるような気がした。





PAGE TOP