「――今日からうちの団で働いてもらうことになった、キルロイよ。
 皆、いろいろ教えてあげて頂戴ね」
「……よ、よろしくお願いします」

 ――それが、初めての出会い。



「――あら、キルロイ。どうしたの?」

 静かな夜。
 皆がそろそろ就寝しようかという時分、きょろきょろと辺りを見回しながら廊下を歩いている青年を見つけ、赤毛の女騎士が声をかけた。
 
「あ、ティアマトさん……」
「こんな時間に、どこかへ行くの?」
 彼女の問いかけに、キルロイはかぶりを振って答える。
「いえ、そうじゃないんです。
 大体解るようにはなったんですけど、部屋や物の配置を出来るだけ正確に覚えようと思って……」
「あら、良い心がけね」
 感心した風に頷いたティアマトは、ふと何かを思案する表情を浮かべた。

「――そうだわ。
 キルロイ、申し訳ないのだけど、ひとつ頼まれてくれないかしら?」
「はい、何でしょう?」
 首を傾げる青年に、ティアマトは抱えていた書類の中から一枚を引き抜いて差し出す。
「次の任務の詳細なのだけど。
 これをオスカーまで届けてもらいたいの」
「オスカーさんに……ですか?」
 問い返すと、赤毛の女騎士はにっこりと、どこか意味ありげな微笑みを浮かべて片目を瞑った。
「今の時間なら、多分自室に居ると思うから。
 ――団のことを勉強するのも大事だけれど、団員とのコミュニケーションも、新人には重要な事よ」

 その言葉で、キルロイは彼女の意図を悟る。
 書類を届ける程度のことであれば、わざわざ他人に頼むほどの仕事でも無いはずだ。それをあえて自分に託したのは、なるべく他の団員と接触する機会を多くする為だろう。砦内の部屋の配置を覚えるのにも役立つし、一石二鳥というわけだ――キルロイはその気遣いに感謝した。

「――解りました。ありがとうございます」
「頑張ってね」
 ぽんと軽く彼の肩を叩いて、ティアマトはその場を去っていった。


 目的の部屋を目指して廊下を歩きながら、キルロイは書類の届け先である人物について考えていた。

『――私はオスカー。よろしく、キルロイ』
 初対面の自分に、柔和な口調で話しかけてきた青年。騎士というよりは文官といった風情の物静かな雰囲気と、細く優しげな目が印象に残った。
 その第一印象の通り、彼は穏やかな人だった。右も左も解らない自分に、事あるごとにさりげなく気を遣ってくれる。
 おそらくはこの団の中で一番年が近いということもあり、友人として親しくなれればいいな、などとキルロイは密かに期待していた。

 けれど――日々を重ねるうちに、気づいたのだ。
 オスカーという青年は、非常に穏和で他人に優しい反面、他者に対して常にある一定の距離を保ち続けている。精神的に成熟した大人らしく、自らの内を他人に見せぬよう振る舞う……そんな空気を、キルロイは彼から感じ取っていた。

 そんな青年に対し、あまりプライベートな部分に踏み込んだら、嫌な思いをさせてしまうのではないか――。
 それ故に、キルロイは彼と親しくなりたいと思いつつも、いまいちそのきっかけを掴めないままでいるのだった。



 そんなことを徒然と考えながら歩いているうちに、目指す部屋の扉が見える位置までやって来たことに気づく。
 考え事をしながらでも辿り着ける程度には、この砦内の構造を把握出来ているようだ、とキルロイは少し安心した。

 目的の扉の前に立ち、二度ほど深呼吸をする。

 ただ書類を渡すだけ、しかも相手は仲間内でも一番話しやすい人物――簡単な事のはずなのに、何故か妙に緊張している自分に気づく。
 さらにもう一度、深く息を吸って吐き、キルロイは扉へと手を伸ばした。


 ――コンコン。


 軽く叩いたはずの音が、何故かやけに大きく聞こえる。
 ややあって、扉が静かに開かれ、部屋の主たる青年が顔を覗かせた。そして廊下に佇んでいる相手の姿を認め、意外そうに軽く眉を上げる。

「――キルロイ?」
「こ、こんばんは……」
 何と切り出して良いか一瞬迷って、無難に挨拶などしてみる。

「どうしたんだい、こんな時間に」
「これを、ティアマトさ……あ、いえ、副長からお預かりしたんです。
 オスカーさんに届けて欲しいって……」
 慌てて言い直すキルロイに、緑の髪の青年がくすりと笑う。
「副長から……? ああ、次の任務の件かな。
 わざわざすまなかった、有り難う」
 青年の差し出した書類を受け取り、目を通し始めるオスカー。その姿を横目に、キルロイは無事任務を遂行できたと胸を撫で下ろした。

 ここで世間話の一つも切り出せば、さらに親睦を深めることが出来るのだろうが……生憎、仕事の書類を見ている青年に対して遠慮なくそれを出来るほど、キルロイの神経は図太くできてはいないのだった。

「それじゃ、僕はこれで……」

 お休みなさい、と軽く頭を下げてその場を去ろうとした時、背後でオスカーが声を上げた。
「――あ、ちょっと待ってくれ」
「はい?」
 何だろうと振り返ったキルロイに、青年は右手の書類を示してみせる。
「この書類、確認したらサインをして返すように、と書かれているね。
 ――どうやら、これを持ち帰るまでが君の仕事みたいだよ」
「……え? そうなんですか?」
 先程のティアマトの言い方から、てっきり渡せばそれで良いものと思い込んでいた青年が驚く。

「すぐ終わると思うから、中に入って待っていてくれるかな」
「え?」
「廊下で待たせるのも悪いからね。寒いし」
 予想外の展開に戸惑ったものの、特に断る理由も無いので、キルロイはその厚意に甘えることにする。
「そ、それじゃあ、お邪魔します……」
「どうぞ」
 オスカーが大きく開けた扉から、キルロイは躊躇いがちに室内へ足を踏み入れた。



 人ひとりが生活するのに必要最小限といった広さの部屋は、主の性格から想像できる通り、整然と片づけられていた。
 そもそも私物の数自体が少ないのだろう、目立つものと言えば、書物が隙間無く詰まった本棚くらいのものだった。

 所在無げに佇んで周囲を見回している青年に、オスカーが声をかける。
「狭くてすまないね。そこのベッドにでも掛けると良い」
「あ、はい」
 おそるおそるといった体で、キルロイは促されるままに寝台の端に腰を下ろした。

 机に向かって書類に目を通している部屋の主を後目に、キルロイは物珍しげに室内を見渡す。
 幼い頃から病弱で自室に篭もりがちだった彼には、他人の私室に入った経験などほとんど無い。自分のものとは違う生活の匂いに触れるのが、とても新鮮だった。

 興味深げに周囲を観察していたキルロイの視線が、ふと本棚の中程で止まる。
 そこに置かれていたのは、木で出来た盤と、その上に並んだいくつかの駒。その特徴ある形状に、キルロイは見覚えがあった。


「あれって……もしかしてチェス、ですか?」

 書類にペンを走らせていたオスカーが、驚いたような表情で振り返る。
 無意識のうちに口を突いて出た言葉に、キルロイは自分でも慌てた。
「あっ、す、すみません! 邪魔するつもりじゃなかったんですけど……」
「――キルロイは、チェスを知っているのかい?」
 ペンを置き、相手へ向き直りながらオスカーが問う。その口調に常とは違う熱っぽさを感じ、戸惑いつつもキルロイは頷いた。
「あ……はい。
 そこまで詳しくは無いんですけど、基本的なルールは叔父から教えてもらいました」
「実際に指したことは?」
「一応あります。数回ですけど……」
「――十分だ」

 心なしか嬉しそうな表情で、オスカーは立ち上がると本棚のチェスボードに手を伸ばす。
 目の前に下ろされたそれを見て、キルロイはあ、と声を上げた。
「これは、クリミア式ですか?」
「……驚いたな。そこまで解るのか」
 感心したようにそう言ってから、青年は人差し指で盤面をとんと叩いた。
「騎士団を辞めてからは、これを指せる相手が副長しか居なくてね。
 もし良かったら、今度相手をしてくれないか?」
「えっ、僕がですか?」
 騎士団を辞めた、という言葉に気を取られた次の瞬間、告げられた意外な台詞にキルロイは驚く。
「無理にとは言わないが……どうかな?」
「僕は構いませんが……数回しかやったことが無いですし、対戦相手になるかどうか……」
「構わないよ。解らない所があれば教えるし、指南書もあるからね」
 余程対戦相手に飢えていたのか、いつも冷静なオスカーにしては珍しく、嬉しげな表情を隠そうともしていなかった。
 本当にチェスが好きなんだな、と微笑ましく思うと同時に、意外な一面を見られたことが嬉しかった。

 もしかしたら、とキルロイは思う。
 ――これをきっかけに、彼と親しくなれるかも知れない。

 純粋にゲームを愛している青年には申し訳ないと思いつつも、そんな期待を抱かずにはいられなかった。



「――これで、チェックだ」

 静かな宣言と共に、長い指が駒を動かす。
 その動きを目で追って、キルロイは大きく息を吐き椅子の背にもたれかかった。

「……降参です」
 あっさりと投了を告げた彼に、対面の青年が苦笑する。
「君は少し、諦めが良すぎるな」
「どう考えてみても、今の僕ではこの局面を乗り切る手は思いつきませんでしたから……」
 ――本当は、だいぶ前から負けは見えていたのだ。
 だが、途中で諦めてしまうのは対戦相手たる青年に失礼だと思ったから、決定的な詰みを迎えるまではゲームを続けようと、キルロイは決めていた。


「――やっぱり僕じゃ、まだまだオスカーさんの相手は務まりませんね」
 チェスが好きと言うだけあって、オスカーの腕前はかなりのものだった。ティアマト曰く、彼女ですらオスカーにチェスで勝ったことはほとんど無いらしい。
 そんな彼に、基本的なルールをかじっただけの初心者が敵うはずも無く……これまで指した五回あまりの対局、全てにおいてキルロイは完膚無きまでの投了を余儀なくされていた。

 ――それでも、面白くないと思ったことは一度も無い。
 キルロイもこの手のゲームは嫌いでは無かったし、何よりオスカーとこうしてチェスに興じる時間は、彼にとって非常に居心地が良いものだったから。


 共通の趣味を持つことで、自然と会話が増えていく。
 会話が増えれば、その分だけ親しくなれる。

 こうして共に過ごす時間を重ねていって――そしていつかは、オスカーに友人と思ってもらえるようになれれば良いなと、そんな風にキルロイは考えていた。
 さらに言えば、彼にチェスで勝てるようになれれば最高なのだけれど。
 それは高望みかな、と独り密かに苦笑する。


 そんな彼の思考は、ふわりと鼻先を擽る香ばしい薫りに断ち切られた。
 見れば、いつの間に用意したのか、湯気を立てる紅茶のカップが目の前に置かれたところだった。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 礼を言ってから、キルロイは温かい紅茶を一口飲む。
 それを見計らったように、オスカーが口を開いた。

「――ところで、キルロイ」
「はい?」
「君はいつになったら、私の事をさん付けで呼ぶのを止めてくれるのかな。それと、敬語も」
「……えっ?」

 予想だにしていなかった相手の言葉に、キルロイは両手でカップを持ったままきょとんと鳶色の双眸を瞬かせる。
「皆、入団の時に言わなかったかい?
 呼び捨てでいい、敬語も使わなくていいと」
 ――確かに、初めての顔合わせの時、団長のグレイルもティアマトもそんな事を言っていた気がする。
 しかし、自分より年下のメンバーに対してはそう出来ても、目上、あるいは年上となれば話は別だった。頭ではそうと解っていても、相手が上であると意識した途端、つい敬語で話してしまうのだ。
 真面目で控え目なキルロイの性格が、裏目に出た形だった。

「で、でも……オスカーさんは団の先輩で、年も上ですし……」
「年上と言っても、いくらも違わないだろう?」
「それは、そうですけど……でも、やっぱり」
 困った表情でカップの液面に視線を落とし、口ごもるキルロイ。
 そんな彼を苦笑混じりに見つめて、オスカーは穏やかに問いかける。


「……君は、友人に対してもそうやって、呼び捨てもせず敬語で話すのかい?」
「……え?」


 キルロイは思わず視線を上げ、相手の顔を見る。

 ――今、彼は何て?


「それとも――」
 軽く首を傾げて、オスカーが続ける。
「――友人と思っていたのは、私の方だけだったのかな?」
「……!
 そ、そんな事は無いよ!」
 反射的に否定の声を上げた後、あ、と口元を押さえたキルロイを見遣り、ほら出来るじゃないかとオスカーは笑う。

「それで良い。
 ――私達は友人同士だ。これからは、お互い敬称も敬語も無しにしよう。いいね?」


 ――いつかは彼と、互いに友人だと認め合う関係になりたい。そう密かに願っていた。
 それがよもや、こんなにも早く実現するなんて。

 いや、そうじゃない。
 キルロイは内心でかぶりを振る。

 おそらく、その望みはとうの昔に叶っていたのだ。
 ただ、自分がそれに気づいていなかっただけで。


「……うん、解ったよ。
 えっと……オスカー」
 少しはにかんだような顔で名を呼んだキルロイに、青年は穏やかな微笑みで応えてみせた。





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