長い指が駒を持ち上げ、淀みなく狙いのマスへと動かす。
 それを目にした対面の青年は、ふうっと胸の奥から息を吐いた。そして無言のまま、己が前にある白のキングを横に倒す——言葉よりも雄弁な、投了の意思表示。

 かくして、今回の対局は終わりを告げたのだった。


「——もしかしたら勝てるかもって思ったけど……やっぱり、そう甘くはなかったね」
 苦笑を浮かべて言ったキルロイに、オスカーは真面目な面持ちでかぶりを振ってみせる。
「いや、正直今回は焦ったよ。
 あと一回妙手を打たれていたら、戦局は逆転していたかも知れないな」
「……そう、かなあ?」
 キルロイの側から見れば、たとえあと数回絶妙手を打てていたとしても、彼に勝てたとは到底思えなかった。首を捻る青年に、オスカーがくすりと笑う。
「世辞ではないよ。私が感じたままを述べているだけだから」
「……本当にそうなら、嬉しいな」
 照れたように微笑む友人を穏やかに一瞥してから、オスカーはおもむろに立ち上がった。そして戸棚から二人分のカップを取り出し、紅茶を淹れる準備を始める。


 ——互いに何の予定も入っていない時は、こうして食堂でチェスに興じ、対局を終えたら温かい紅茶で一息つく。
 ここ一ヶ月の間に、その一連の流れはしっかりと生活の中に組み込まれ、慣習として根付き始めていた。

 茶器の触れ合う微かな音を聞きながら、キルロイは友人たる青年の背中をぼんやりと眺め思いを馳せる。
 ——元々、勝負事はあまり好きではない性質だ。
 例え遊びであっても、他人と争うという事はしたくなかった。チェスにしても、そのゲーム性を面白いと感じこそすれ、勝ち負けにこだわる気持ちは微塵も無い。
 そんなキルロイが、殊この青年との対局においてだけは勝つ事を目標に掲げているのには、それなりの理由があった。

 勝てない事そのものが問題なのでは無い。
 気にかかるのは——彼がそれをどう感じるかという事。


「……オスカーは、僕が相手でつまらなくないかな?」
 紅茶を運んできた青年に、キルロイは躊躇いがちに問うた。その問いを受け、理知的な面に怪訝な色が浮かぶ。
「つまらない筈がないだろう?
 こうして対戦する機会をくれているだけでも、本当に有り難いと思っているんだから」
「でも、今までゲームをしてきて、勝つどころか引き分けに持ち込むことすらも出来てないし……。
 オスカーも実力を出せなくて、張り合いが無いんじゃないかなって……」
 心中の不安を反映するかのような、抑えた声。
 微かな吐息に、目の前のカップから立ち上る湯気が揺らいだ。

 対戦を重ねたとは言え、まだまだ初心者の域を出ない自分に対し、オスカーは本気を出していない。彼はなるべくそう感じさせないよう振る舞っているが、見る者が見れば明らかに解ることだ。

 キルロイはそれが申し訳なく、そして悔しかった。
 自分がもっと強ければ——彼に全力を出させてあげられるのに。

 そんな友人の言葉に、青年はしばし考えるように沈黙した後、ふっと微笑んで口を開いた。
「……確かに、自分の全力をもってゲームが出来るなら、それはとても楽しい事だよ。
 けれど、対局においてはそれ以上に大切な事があると、私は思ってる」
「……?」
 首を傾げ見上げてくる青年に向かって、オスカーは穏やかに言葉を投げかける。

「——君は、不利な局面になった時も、決してゲームを投げない。
 戦局を打開する妙手を模索し続け、最後まで真剣に盤面に向かっている。
 それは、誰にでも出来る事ではないよ」

「あ……」

 ——それは、彼と初めて対戦した時から決めていたことだった。
 初心者である自分とオスカーの間には、厳然たる実力差がある。それは事実であり、一朝一夕でどうにかなるものではない。
 ならば、少しでもゲームを面白いものにするため、自分に出来る事は何か?
 そう考えた結果が、「負けが明らかになるまではゲームを降りない」という事だったのだ。

 自分なりに考えてやってきた、ささやかな努力。
 それを彼が気づき、認めてくれていた——その事が、キルロイは嬉しかった。

「……勝てるまで努力を続ける事が出来る人間というのは、実はそう多くは無いんだ。
 私は良い対戦相手に巡り会えた。その幸運を感謝しているよ」
 そう告げて、オスカーはキルロイの対面——先程、対局をしていた時と同じ席に座る。
「だからこそ、私も一切手は抜かずにやらせてもらっているんだ。
 意図して勝ちを譲ることは、本気で向かってきてくれる君に失礼だと思ったからね」

「——良かった」

 最も恐れたのは——彼が、張り合いの無い自分とのゲームに愛想を尽かす事。そしてその結果、彼とこうして過ごす時間が失われる事。
 他ならぬ本人の言葉でその可能性を否定して貰えた事に、キルロイは心の底から安堵した。


「……でも、手加減はしているよね?」
 照れ隠し半分にそう問いかければ、煙に巻くような微笑みを浮かべる口元。
「……さあ、どうかな」
 いつもの笑顔に少しだけ悪戲めいた色を混ぜ込んで、オスカーは軽く肩をすくめる。明確な否定をしなかったその言い回しに、彼の答えが表れていた。

「うーん……やっぱりちょっと悔しいな……」
 無意識にこぼれ落ちたその言葉に、他ならぬキルロイ自身も驚いていた。
 幼い頃から病弱で、他の子供たちと競い争う事をしてこなかった彼は、負けて悔しい、人より優れたいといった感情をほとんど知らずに育った。見栄を張ることも無く、常に自然体——それは穏やかな人として周囲に好かれる反面、男にしては覇気が足りないと揶揄される所以でもあった。
 そんな彼が、オスカーの前でだけはらしくない見栄を張ろうとし、みっともない所を見せたくないと足掻いている——その事が、キルロイは自分でも意外であり、また新鮮だった。

 ——多分、自分は認められたいのだ。
 あらゆる面でオスカーには敵わないと解っている。それでも、友人として対等でありたい。そして、彼にもそう思ってもらいたいのだ。

 まずは、その為の一歩として。

「いつか、オスカーに全力で対戦してもらえるように頑張らないと」
「楽しみにしているよ」
 そう、二人穏やかに笑い合った時。


「——ああ、いたいた!」
 騒々しい声と共に扉が開き、見るからにやんちゃそうな少年が食堂へと入ってきた。
 そのまま二人が座るテーブルの傍までやって来ると、卓上に広げられたゲーム盤と駒を見て顔をしかめる。
「まーたこれか。本当飽きねぇのな、兄貴」
「やあ、ボーレ」
 にこやかに挨拶する杖使いの青年に向かって、三兄弟の次男坊は大仰な仕草で肩をすくめて見せた。
「キルロイも大変だな、毎度毎度兄貴の道楽に付き合わされてよ」
「……人聞きの悪い」
「え? そんな事ないよ。
 むしろ、逆に付き合わせて申し訳ないと思ってるんだけど……」
 顔をしかめるオスカーに、そんな事は思いもしてなかったといった表情のキルロイ。
「——まあ、私の趣味に付き合ってもらっているのは事実だが。
 キルロイは優秀だからね。対戦していても張り合いがある」
 ちらと横目で弟を見やり、オスカーは言葉を継ぐ。
「……駒の動き方を覚える時点で挫折した誰かとは、雲泥の差だよ」
「う、うるせえな。オレはこの手のゲームは性に合わねえんだよ!」
 それが自分の事を皮肉っているとすぐに気づいたらしく、ボーレは口を尖らせてそっぽを向いた。そんな兄弟を交互に眺めて、キルロイはくすくすと笑う。
 普段、誰に対しても穏やかな物腰を崩さないオスカーだが、このすぐ下の弟に対してだけは容赦の無い皮肉や毒舌を浴びせることがある。
 それも身内ゆえの気安さと親愛から来るものであると知っているだけに、キルロイにはそのやり取りが微笑ましく——そして少し、羨ましかった。

「……それで、私に用事があったんじゃないのか?」
 このまま弟に喋らせていては埒が明かないと踏んでか、オスカーが訊ねる。兄に問われ、少年は思い出したようにぽんと手を打った。
「あ、そうそう。副長が兄貴の事呼んでたぜ。作戦室まで来てくれって」
「……それを最初に言わないか」
 やれやれと溜息をつき、オスカーは椅子からさっと立ち上がった。

「それじゃ、キルロイ。今日も付き合ってくれて有り難う」
「ううん、こちらこそ」
 食堂から去っていく青年を、キルロイは軽く手を振って見送る。
 その背中が完全に見えなくなり、室内には二人だけが残された。それを見計らったかのように、ボーレが話しかけてくる。
「……しっかし、キルロイも兄貴も最近は暇さえありゃそのゲームやってるけど、よくまあ飽きねえよな」
「そ、そう? そんなにかなあ……?」
 ここグレイル傭兵団には、日々多くの依頼が舞い込んでくる。非戦闘員で新顔のキルロイはともかく、オスカーの方はほぼ毎日任務で外出しているので、二人が揃って暇な時というのはあまり無い。
 少なくとも、キルロイ自身はそう思っていたのだが——ボーレの口振りからすると、第三者からは「いつもの事」と認識されているようだった。

「ゲームもそうだけどさ、あの兄貴とずっと一緒に居て疲れねえか?」
 そう言いつつ、ボーレは先程まで長兄が座っていた椅子をちゃっかり確保し、背もたれの方を前にして腰を下ろした。
 あの、の部分が一体何を指すのか、キルロイはいまいち掴みかねて首を傾げる。
「ううん、全然そんな事ないよ。楽しいし、凄く落ち着くけどな」
「マジで? オレと居る時は小言ばっかで口うるさいくせになあ」
 意外そうな表情のボーレに、青年はくすりと微笑んだ。
「それは、兄弟だし仕方ないんじゃないかな。それに、うるさく言うのはボーレの事を思ってくれてるからなんだろうし」
 穏やかにそう述べた彼に、緑髪の少年は辟易したような顔でかぶりを振った。
「おい何だよ、キルロイまで兄貴みたいな事言うなよ」
「あはは、ごめん。
 でも、ボーレだってオスカーの事は嫌いじゃないんだろう?」
「……そりゃ、まあ、な」
 椅子の背もたれに重ねた腕に顎を乗せ、少年はどこか遠くを見るような目つきになる。

「……オスカー兄貴が仕事辞めて戻って来なかったら、オレもヨファもどうなってたかわかんねえ。
 オレら二人は兄貴に育ててもらったみたいなもんだし、そこは感謝してんだぜ」

 ——そう呟いた彼の姿に、いつもの軽い調子は微塵も無くて。

 やんちゃでお調子者、団のムードメーカー的存在の少年も、その明るさの裏で様々な苦労をしてきたのだろう。
 詳しい事情を知らないキルロイにも、それは何となく察せられた。

「ボーレ……」
 しんみりした雰囲気を打ち消すかのように、少年は慌てた風につけ加える。
「あ、今の兄貴には内緒だからな? 絶対に言うなよ!?」
「ふふ、解ってる」
 明らかに照れ隠しと解る大声と仕草が微笑ましくて、思わず上がった口角を手で隠した。

 そっぽを向きがりがりと頭を掻いている彼に、キルロイはどうしようか数秒ほど迷ってから、躊躇いがちに声をかける。
「……あの、ボーレ。
 さっき、オスカーが仕事を辞めたって言ってたけど……ここに来る以前、彼はクリミア騎士団に居たのかい?」
 その問いに、ボーレが怪訝そうな表情を浮かべてこちらに向き直った。
「そうだぜ。あれ、兄貴から聞いてねえのか?」
「うん。聞いていい事なのかどうか解らなくて……」
「別に隠す事でもねえだろ、気にしなくていいって。
 あれは、確か二年前だっけな——」

 その時、ボーレの言葉を遮るかのように、軽いノックの音がした。
「——キルロイ、まだ居るかい?」
「……あれ、オスカー?」
 食堂の扉から顔を覗かせたのは、先刻この場から退出したはずの青年だった。
 彼が現れると同時に、焦って椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がったボーレの姿が視界の端に映って、キルロイは思わず吹き出しそうになったのを何とか堪える。
「あ、兄貴!?
 ……んだよ、いきなり入ってくんなよ! びっくりすんだろ!」
「……さっき、ノック無しで飛び込んできたお前にそれを言われる筋合いは無いんだが」
 怒ったように声を荒らげるボーレに、憮然と胡乱が半々といった表情でオスカーが返す。彼にはその態度が不可解に映るだろうが、それが動揺と照れの裏返しだと知っているキルロイは、笑わないよう肩を震わせて耐えるのに全神経を集中させねばならなかった。

「——それで、オスカー。ティアマトさんの用事はもう終わったのかい?」
 どうにかこうにか笑い出さずには済んだものの、顔はまだ笑ったままの青年が訊ねる。その反応に首を傾げつつも、オスカーはいや、とかぶりを振って友人へと向き直った。
「その件に関してなんだが……キルロイ、君も同席するようにと副長からの伝言だ」
「……え? 僕が?」
 告げられた内容の意外さに、キルロイはきょとんと鳶色の双眸を見張る。

 オスカーが副長に呼ばれたという事は、おそらく任務の話なのだろうと思っていた。
 まさか、自分まで呼び出されるとは——今まで一度も無かった事だけに、キルロイの顔に自然と緊張の色が浮かぶ。

「話は作戦室でするそうだ。一緒に来てくれ」
「あ、うん……解った」
 それじゃあね、とボーレに手を振ってから、キルロイはオスカーの後に続いて食堂の扉をくぐった。





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